名前 | 倉義和(クラヨシカズ) |
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生年月日 | 1975年7月27日 |
国 | 日本 |
出身 | 京都府 |
プロフィール | 小学1年から野球を始め、京都成章高校3年時には、大家友和とバッテリーを組んで京都府予選準優勝を収める。京産大では俊足、強肩を誇る関西六大学リーグNo.1捕手。
1998年ドラフト5位で広島に入団。ルーキーイヤーから一軍出場するも定着できず、正捕手争いに割って入れず。プロ8年目の2005年、正捕手・石原慶幸に離脱も会って、初の開幕スタメン出場。同年は、キャリアハイの109試合に出場してリーグトップの盗塁阻止率を記録するなど見事正捕手となる。 翌年からは石原との併用期間が続き、2008年以降、再び第2捕手の座に転落。2016年、二軍バッテリーコーチとの兼務。同年、チームは優勝するも、一軍出場ゼロに終わり同年引退。2017年から、二軍バッテリーコーチに専念。 通算成績は719試合、1,564打数339安打、23本塁打、126打点、6盗塁、京都成章高卒、京都産業大学卒、179センチ、75キロ、右投右打 |
甲子園には後一歩届かずも、関西六大学リーグNo.1捕手に成長
倉義和は、京都に生まれ、小学1年生から野球を始めます。そのまま地元で過ごし、京都成章高校へ進学すると、大家友和と出会いました。2年時は夏の京都府予選でベスト8にも残り、大家とバッテリーを組んだ3年は、母校の甲子園初出場に近づきます。準決勝の北嵯峨戦では、自ら本塁打を放ち、大家も完投して4-3で勝利しました。そして京都西との決勝戦も、4番捕手として出場します。3回に2点を先制されるも、すぐ裏に自らの2点タイムリーを追いつきましたが、大家が9回表に勝ち越し点を許し、2-3で無念の敗戦をしました。
卒業後も、地元を離れず京都産業大学へ進学して、関西六大学リーグを戦います。当時、龍谷大学、大阪学院大学の2校がほとんどの優勝をかっさらいましたが、自身4年時の春季には捕手としてベストナインに選出されました。
広島に入団するも、正捕手はおろか一軍定着できない日々が続く
1997年ドラフト会議では、広島東洋カープから5位で指名されて入団します。しかも、かつて達川光男がつけていた背番号40を与えられるという正捕手としての期待をかけられました。当時の広島捕手事情は、1992年に達川が引退すると、その翌年から西山秀二が台頭し、瀬戸輝信との併用が続きます。しかし打撃力のあった西山は、1994年と1996年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞するほどリーグを代表する捕手に成長していました。
倉義和は、ルーキーイヤーの1998年から一軍初出場しましたが、打撃力も低く、一軍定着できないシーズンが続きます。西山に続く、第2捕手の座を射止めることも難しく、2000年には木村一喜、2002年には石原慶幸らライバルも続々と入団していました。
8年目にチャンスを生かして開幕スタメン出場し、正捕手として過ごす
プロ8年目の2005年、倉義和に転機が訪れます。当時の広島は、石原慶幸が正捕手を奪い、前年には打率.288をマークするなど、その座をさらに磐石なものとしていました。年下に先を越された倉は、春季キャンプで奮起するつもりが、1学年先輩ですでにエースとなっていた黒田博樹に愛のムチをうけます。ブルペンで黒田の投球を受けたところ、緊張感がなく良いミット音が響かないキャッチングに投球練習を止めてしまいました。
その日から、一球の重みを再認識し、キャッチングの練習に日夜励みます。すると、信頼を取り戻し、さらに同年は正捕手・石原が骨折で離脱ししたため、自身初の開幕スタメンマスクを任されました。3年連続開幕投手・黒田とバッテリーを組み、2005年シーズンをスタートさせます。5月末には、石原が復帰し一時は正捕手の座を奪われましたが、攻撃的なリードを買われて、再び奪い返しました。結局、チームの捕手で最多、かつキャリアハイの109試合に出場し、リーグトップの盗塁阻止率をマークします。チームは最下位に沈みましたが、黒田の最多勝がかかる試合でもバッテリーを組み、勝利に貢献しました。
正捕手を守れず、ライバルの台頭もあって再び出場機会を奪われる
2006年は、倉義和84試合、石原慶幸85試合とまさに併用となります。さらに、エース黒田博樹は決まって倉がバッテリーを組むという、専属捕手状態となりました。2007年も、ほぼ同じ状況が続きましたが、強気すぎるリードは時として仇となり、打撃でも活躍できなかったため、再び出場試合数が減っていきます。2008年からは黒田がメジャー移籍してコンビ解消となりましたが、広島へ帰還するまで現役で居ることを誓いました。
2009年からは、新人の會澤翼もライバルとして加わります。年間50試合程度の出場が続きましたが、石原に続く第2捕手として存在感を示しました。2012年4月には、新エース前田健太とバッテリーを組んで、ノーヒットノーランの達成にも貢献します。同年は、久しぶりに70試合出場しましたが、課題の打撃は打率1割台と結果を残せませんでした。
25年ぶりの広島優勝を一軍で見届けられず、現役生活引退を決意
2013年からは、さらに出場機会を減らし、2015年には黒田博樹が広島に復帰したにも関わらず一軍出場はわずか1試合に終わります。2016年も、現役選手として迎えましたが、二軍バッテリーコーチ兼務にもなりました。そして、同年チームは開幕から好調を維持し、優勝争いの主役に躍り出ます。ベテラン黒田も、ローテーション投手としてフル回転し、リーグ独走状態となり、25年ぶりの優勝が目の前に迫りました。
マジックを順調に減らし、ついに9月10日にセ・リーグ優勝が決まります。しかし、その瞬間をナインと分かち合うことはできず、テレビの前で喜びました。同時に、必要な戦力になっていないことを強く感じ、優勝決定から10日後に引退を発表します。そしてクライマックスシリーズを控えた同月27日、黒田との黄金バッテリーで引退試合がスタートしました。普段の黒田とは異なり、いきなり先頭打者に四球を与え、倉は石原慶幸と交代します。しかし、その後雨足が強くなりノーゲームとなりました。その後、プレーオフ、日本シリーズにも出場することなく、19年の現役生活に別れを告げます。2017年からは、そのまま広島に残り二軍バッテリーコーチに専念しています。