名前 | 石井貴(イシイタカシ) |
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生年月日 | 1971年8月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県綾瀬市 |
プロフィール | 高校では内野手、2年秋から投手。社会人野球の三菱重工横浜に入り、最速151キロを誇る右の本格派で4年目の1993年には7勝を挙げた。
同年10月プロ入りを表明、西武を逆指名し、ドラフト1位で入団。1996年リリーフとして頭角を現し、1997年10勝9セーブで優勝に貢献。1998年からローテーションの一角を担う。1999年~2年連続二桁勝利。その後二桁から遠ざかり、不本意な成績が続く。 2004年、シーズン1勝に終わるも、日本シリーズでは2戦2勝してシリーズMVPを獲得。2006年、フォークを修得し、セットアッパーとして46試合に登板。2007年現役引退。 2008年から西武二軍投手コーチ、2012年西武一軍投手コーチ就任。2013年退任。 通算成績は321試合、68勝58敗13S、26ホールド、防御率3.78、1,136回0/3、671奪三振。藤嶺藤沢高卒、180センチ、78キロ。右投右打 |
社会人時代に本格派投手として頭角を現し、西武に逆指名入団
石井貴は、1971年神奈川県綾瀬市に生まれ、7つ上の兄の影響もあって野球を始めます。藤嶺学園藤沢高校に進学しましたが、その理由の一つは兄が桐蔭学園時代の監督だった木本芳雄がいたことでした。2年秋からは投手に転向し、1985年以来2度目の甲子園を目指します。本格派投手としてすぐさま有名となりましたが、スピードがあるも制球力がないためエースにもなれず、最後の夏は格下と思っていた相手に敗れました。
卒業後は、三菱重工横浜に進み野球の腕を磨きます。社会人4年目の1993年には、151キロを計測するなど、7勝をあげてチームに貢献しました。同年秋にプロ宣言すると、プロ球界から大注目されます。そして、西武ライオンズを逆指名して、ドラフト1位で入団が決まりました。
3年目に中継ぎとして定着し、4年目には二桁勝利で優勝に貢献
社会人上がりの逆指名入団ということで、当然即戦力として期待されます。開幕には出遅れましたが、6月にプロ初登板を迎えました。しかし、2回2/3で自責点6と散々な出来に終わります。同年はわずか3試合の登板で、防御率16.20という考えられない成績でした。2年目に、8月にプロ初先発の機会が与えられ、同試合で初勝利を手に入れます。それでも2勝2敗、防御率4.03と中途半端な数字で終わりました。
しかし、3年目の1996年、プロの水に慣れて中継ぎとして定着します。チームは前年に続いて3位と苦しむ中、35試合に登板して防御率2.93と及第点の成績を収めました。翌1997年は、信頼感が増してチーム2位となる59試合に登板します。新人ストッパー森慎二の不調時には急造抑えとしても活躍し、10勝8敗9セーブと二桁勝利を実現しました。同年の西武はエース西口文也が大車輪の活躍で、見事優勝を飾り日本シリーズに進出します。石井貴も中継ぎとして3試合に登板しましたが、そのうち2試合で失点し、チームも完敗しました。
先発ローテーション投手に転向し、4年で3度の二桁勝利を達成
1998年からは先発投手に転向し、2年連続のリーグ優勝に貢献します。9勝3敗と二桁に後一歩届きませんでしたが、チームトップ、リーグ3位の防御率3.29という好成績を残しました。1999年からは、スーパールーキー松坂大輔が入団し、西口文也、豊田清らで強力先発ローテーションを形成します。「投げる金剛力士像」と称されたように、気迫を前面に押し出したピッチングで、キャリアハイの13勝をマークしました。
2000年もしっかりローテーションを守って、2年連続二桁勝利を達成します。しかし防御率を落とし、その後は好不調の時期が交互に訪れました。2002年は防御率3.11で8勝をマークして戦力となります。しかし、翌2003年の登板は、わずか6試合に終わりました。
シーズン1勝にも関わらず、日本シリーズで2勝してMVP獲得
2004年は、先発として14試合に登板するも1勝5敗と、首脳陣の期待を大きく裏切ります。しかしチームが2位でプレーオフに進出すると、石井貴は俄然力を発揮しました。福岡ダイエーホークスとの第2ステージでは、初戦に先発して黒星を喫しますが、最終第5戦の最後のマウンドに立っていたのも石井でした。
胴上げ投手となってパ・リーグ優勝を決めた西武は、日本シリーズ初戦の先発にも石井を抜擢します。中日エース川上憲伸との投げあいとなりましたが、7回無失点に抑え西武が先勝しました。その後、出番がないままに3勝3敗となり、第7戦の先発がまわってきます。無難に立ち上がると、3回表に西武打線が爆発し5点というビッグプレゼントを得ました。そこからは、さらに落ち着いた投球で6回を3安打無失点に抑え、チームも7-2で勝利します。西武の日本一は実に12年ぶりで、2戦2勝した石井は文句なしで、MVPに輝きました。
35歳ながら新球フォークボールを修得して、中継ぎとして復活
2005年、日本シリーズMVPの勢いを持続したいところでしたが、不調の域から脱せず、7試合登板の2勝4敗に終わります。プロ14年目で、FA権を取得していましたが、行使することなく残留を選択しました。
翌2006年、復活を賭けて、佐々木主浩から伝家の宝刀フォークボールを教わります。すると、開幕から新球フォークが冴え渡りました。リリーフ陣が手薄となったため、中継ぎとしてスタートすると、開幕から11試合連続無失点を記録しセットアッパーに定着します。投球はニュースタイルに変わりましたが、気迫あふれるピッチングはかつてのままで、最年長投手としてチームをリードしました。キャリア2番目に多い46試合に登板し、チームトップの23ホールドを記録します。同年は、最終戦まで日本ハムと優勝を争いましたが、わずか1ゲーム差で派遣奪還を逃しました。
現役引退後は球団に残り、西武投手コーチを6年間歴任
2008年も、ベテランとして開幕を迎えましたが、突如衰えを隠せなくなります。かつて石井貴の代名詞だったストレートは完全に球威を失いました。一軍登板機会も8試合に留まり、成績を残せなかったため、同年限りでの引退を決意します。そしてそのまま球団に残り、二軍投手コーチに就任しました。
自身も二軍経験が多かったこともあって、選手たちからの人望のある熱いコーチを務め、2012年からは一軍投手コーチに昇格します。しかし、2008年以降優勝から遠ざかり、2013年、渡辺久信監督が退任するタイミングで、石井コーチも退団しました。その後は解説者生活を始め、2015年からは母校・藤嶺学園藤沢中学校・高等学校において非常勤コーチとしても指導しています。