名前吉村禎章(ヨシムラサダアキ)
生年月日1963年4月27日
日本
出身奈良県御所市
プロフィール高校野球選抜大会で優勝。

1982年ドラフト3位で巨人に入団。1983年一軍に上がり、1985年には首位打者争う打率.326をマーク。左右に打ち分けるバッティング、鋭い打球が売り物。1986、1987年ベストナイン。1988年、通算100号を打った試合で、左膝じん帯を痛める。

以後1年以上療養を続け、1989年シーズン終了直前に復帰。1990年カムバック賞。1998年10月シーズン終了後引退、日本テレビ野球解説者となる。

2001年10月巨人打撃コーチに就任。2006年からは巨人二軍監督に就任。2009年から再び一軍打撃コーチを務め、2011年退任。2015年からは侍ジャパンのアンダー世代である15U(中学生以下)代表監督就任。

通算成績は1,349試合、3,253打数964安打、149本塁打、535打点、40盗塁、打率.296。ベストナイン2回、カムバック賞。PL学園高卒、左投左打、180cm、89kg

志願してPL学園進学を勝ち取ると、3年センバツで全国制覇

吉村禎章は、奈良県御所市に生まれ、小学生の頃から野球を始めます。同じ左打者の王貞治に強い憧れを持ち、野球の練習に打ち込みました。中学3年時、天理と智弁学園の両校に誘われていましたが、PL学園が甲子園全国制覇するのを見て思いが変わります。そしてPLのセレクションを受けて、レベルはギリギリでしたが合格して進学を決めました。

当然全国から有力選手が集まるだけあって、レギュラーの道は並大抵ではありません。しかし努力を積み重ねてレギュラーになると、2年秋の近畿大会でベスト4に入りました。そして、3年春のセンバツ出場権を得ます。吉村は主将として、西川佳明、若井基安らとともに、逆転のPLと呼ばれた歴史を繰り返しました。初戦から西川が完封発進すると、2回戦では0-0の9回に吉村の本塁打で勝利し勢いに乗ります。準々決勝、準決勝と危なげなく勝ち進み、印旛高校との決勝戦を迎えました。0-1で絶体絶命の9回、粘り強く同点に追いつき、さらにエース西川がサヨナラヒットでPL初のセンバツ優勝を決めます。そして、春夏連続出場を目指しましたが、ベスト8にも残れず大阪府大会で敗退しました。

プロ2年目に50番トリオとしてブレイクし、リーグ優勝も経験

法政大学内定を手にしていましたが、1981年ドラフト3位で巨人から指名されます。進学するかで悩んでいたところ、当時助監督の王貞治から直接電話を貰い、一気に入団に傾きました。そして背番号55を与えられ、高校時代の一塁手から外野手へ転向します。わずか4試合でしたが、ルーキーイヤーに一軍出場も記録しました。

1983年、巨人は伝説の伊東キャンプで鍛えられた若手らが主力となり、2年ぶりのリーグ優勝を実現します。そして、2年目の吉村禎章も84試合に出場して規定打席不足ながら、打率.326とチームに貢献しました。同期入団の槙原寛己(背番号54)も初登板初完封するなど12勝をマークして新人王を受賞します。3年目にブレイクした駒田徳広(同50)含めて、背番号「50番トリオ」として大きく注目されました。

ONの後継者と言われ、原辰徳らと強力クリーンナップを形成

1984年からは、センスあるバッティングと堅実な守備で外野手レギュラーに定着します。1985年には、初めて規定打席に到達して、打率.328(リーグ3位)という好成績を残しました。そして、背番号を7に変更した1986年からは、2年連続ベストナインと球界を代表するプレイヤーに名乗りを上げます。本塁打数も年々増やし、1987年には30本の大台に乗せました。原辰徳、クロマティらと形成するクリーンナップは、セ・リーグ屈指となります。この時点でまだ20代前半であり、巨人の4番は10年安泰とも言われONの後継者として大いに期待されました。

通算100号達成日に、プロ野球史上最悪と言われる大怪我

まさに順風満帆だった吉村禎章のプロ野球人生でしたが、7年目の1988年、選手生命を奪いかねない大怪我で大きく狂わされます。毎年恒例の北海道遠征で、札幌松山球場で行われた7月の試合、3番打者として4回に通算100号のメモリアルアーチを叩き込みます。その後4番原辰徳、5番呂明賜も続くというクリーンアップ3連発で札幌のファンを沸かせました。

巨人がリードして終盤を迎えた8回、悲劇が訪れます。左翼手の守備に就いた吉村は、中尾孝義選手が放った打球を捕球した際、中堅手として途中出場していた栄村忠広と激突し担架で運ばれる事態となりました。診断の結果は左膝靭帯断裂で、膝を支える4本の靭帯のうち3本が完全断裂し、神経も損傷するという重傷でした。プロ野球史上最悪とも言われた大怪我は日本では手に負えず、アメリカのフランク・ジョーブ博士による手術を受けました。

423日ぶりに奇跡の復活を遂げ、翌年は優勝決定本塁打を放つ

ジョーブ博士ですら初めて直面した大怪我であり、2度の手術後は、長いリハビリが待ち受けます。障碍者認定を受けるほどの怪我のため、プロ野球選手として復帰するのは難しいと思われましたが、吉村禎章は不屈の根性でリハビリ期間を過ごしました。そして、1989年9月、実に423日ぶりに代打として一軍復帰を果たします。結果はセカンドゴロでしたが、東京ドームのファンは割れんばかりの大歓声で迎えました。1990年には、外野手としても復帰を果たし、打率.327とかつてのセンス抜群のバッティングを披露します。マジック1で迎えた試合では自ら優勝を決めるサヨナラホームランを放ち、カムバック勝を受賞しました。

代打の切り札的存在を長らく務めて引退後は、指導者に転身

30歳を過ぎた頃からは、代打の切り札として活躍します。現役最終年となった1998年には、長嶋茂雄監督からキャプテンにも指名されました。順調にプロスタートを切って、2000本安打はもちろん、球界を代表するプレイヤーとなると思われましたが、964安打、149本塁打に終わります。しかし生涯打率は、.296とバッティングセンスの高さを見せました。

現役引退後は、解説者を務め、2002年から2年間一軍打撃コーチに就任します。2006年からは巨人二軍監督に就任し、多くの若手を一軍に送り込みました。2011年を持ってチームを退団すると、2015年から侍ジャパンのアンダー世代である15U(中学生以下)代表監督に就任しています。

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