名前香田勲男(コウダイサオ)
生年月日1965年5月29日
日本
出身長崎県
プロフィール佐世保工高時代、1982年夏、2年生エースとして甲子園に出場すると、3季連続出場。3大会とも初戦突破するなど甲子園4勝(3完封)をマーク。

1984年ドラフト2位で巨人に入団。同年8月22日のイースタン西武戦でノーヒットノーランを演じて、脚光を浴び、1986年5月には一軍で初勝利もあげたが、1987年には右肩の故障で練習生となる。

トミー・ジョン手術を経て1988年一軍に復帰し6月対ヤクルト戦で初先発し完封勝利をあげる。1989年7勝。同年の日本シリーズ対近鉄第4戦で完封勝利を収め巨人の日本一に貢献。1990年にはローテーション投手として、11勝をマーク。

1994年シーズン終了後、近鉄に移籍。1997年先発として9勝をあげるなど活躍し、初のオールスター出場。1999年リリーフとして活躍し5勝8セーブ。2001年11月引退。

通算成績は350試合、67勝54敗11S、防御率3.82、1,110回2/3、738奪三振。佐世保工卒、右投右打、180cm、80kg

3季連続で甲子園に出場し、3完封を含む甲子園4勝をマーク

香田勲男は、1965年長崎県にて生まれます。地元長崎で野球を続け、佐世保工業高等学校へ進学すると、2年生からチームのエースに就任しました。1982年、夏の県予選決勝では9回裏に追いつき、延長10回サヨナラ勝ちで、自身初、チームとして3度目の甲子園出場を決めます。聖地での初戦は、9回に1点こそ失いましたが、見事完投勝利を収めました。同年秋季も九州大会でベスト4に入り、センバツ出場を決めます。本戦でも、圧巻の2試合連続完封という離れ業を演じるも準々決勝で敗退し、大会は水野雄仁率いる池田高校が制しました。

すでに、3年夏には長崎県大会決勝でノーヒットノーランを達成して、3季連続甲子園に出場します。高校生活最後の夏、初戦で甲子園3度目の完封を成し遂げて2回戦に進出しました。しかし、横浜商に1本塁打を含む13安打を浴びて0-6で完敗し、甲子園を後にします。同年は、桑田真澄、清原和博の1年生コンビが中心のPL学園が、池田高校含めて強豪を一蹴し夏2度目の全国制覇を成し遂げました。

ドラフト2位で巨人入団後、右肩痛を患いトミー・ジョン手術

1983年ドラフト会議では、巨人が相思相愛の水野雄仁を1位で指名します。2位でも同じ高校生の池山隆寛を指名しますが抽選で負けて、香田勲男の指名に切り替えました。甲子園4勝の実績も高卒ルーキーのため、1年目はファーム暮らしとなります。2年目に1試合だけ一軍登板すると、3年目にプロ初勝利をあげました。しかしその後、肩を壊したため、フランク・ジョーブによるトミー・ジョン手術を受けます。リハビリで1987年は棒に振り、チームの優勝には全く貢献できませんでした。

1988年には戦線復帰し、6月には初先発の機会が与えられると初完封を成し遂げます。リリーフメインながらローテーションの谷間に先発し、27試合で4勝3敗、防御率2.59という好成績で一軍に定着しました。

日本シリーズ崖っぷちの試合で完封し、奇跡の逆転優勝を実現

1989年からは、スローカーブを多投し始め、無四球完封を含む7勝に防御率2.35とチームの戦力としてリーグ優勝に貢献します。30イニング連続無失点も記録しましたが、斎藤雅樹(20勝)、桑田真澄(17勝)、槙原寛己(12勝)の先発3本柱は好調で先発試合は12試合でした。

しかし続く近鉄バファローズとの日本シリーズでは、投の主役は香田勲男が奪います。槙原が半月版損傷で登板できず、初戦から斉藤、桑田、宮本和知が先発としてマウンドに立ちましたが、全員に黒星がついてまさかの3連敗を喫しました。第4戦先発の香田は荷が重いという声が多い中、投手コーチの中村稔は自信を持って監督に進言します。第3戦、2番手で水野雄仁が登板し、縦の変化で3イニングを完璧に抑えたのを見て、香田のスローカーブは通用すると判断したのでした。

そして第4戦に先発すると、140キロ台の速球と90キロ台のスローカーブでいてまえ打線を手玉に取ります。3安打完封してシリーズの流れを一変させました。その後、巨人打線も復活して3勝3敗まで持ち直し、第7戦で再び香田に先発マウンドが託されます。勢いに乗った打線が6回までに7点を奪い、香田は6回を3失点に抑えて2勝目をマークしました。MVPは打率5割強の駒田徳広に譲りましたが、堂々の優秀選手賞を受賞します。巨人は、3連敗から奇跡の4連勝で、1981年以来の日本一を達成しました。

先発ローテーション投手として、初の二桁11勝で巨人連覇に貢献

1990年は、先発ローテーション投手として規定投球回数をクリアして、初の二桁11勝をマークします。防御率もリーグ4位の2.90とキャリアハイのシーズンを送りました。同年の巨人投手陣は凄まじく、二桁勝利達成者が実に6人、防御率1位から4位までを独占します。1シーズンを10人の投手だけで乗り切り、2位に22ゲーム差をつける圧勝でリーグ連覇を実現しました。しかし、早くに優勝を決めて試合勘が戻らなかったこと、西武ライオンズが絶頂期にあったこともあって、日本シリーズでは4連敗と惨敗します。香田勲男は、リリーフとして2試合に登板しましたが、ともにリードされた場面での登板でした。

近鉄でも先発にリリーフにフル回転し、初のオールスター出場

1991年以降も、先発としてマウンドに立ちましたが、成績は下降線をたどります。二桁勝利を達成できずに4年が経過し、1994年オフには、阿波野秀幸との交換トレードで近鉄に移籍が決まりました。投手力が弱い近鉄でも、先発の一角として期待されます。しかし、1995年は2勝に終わり、1996年はウエスタンで最多勝、最優秀防御率、最高勝率と投手3冠を奪いましたが、一軍では未勝利に終わりました。

1997年に、先発として9勝をあげ、自身初のオールスターに出場するなど復活を見せます。しかし、活躍は続かず、1999年からはリリーフ転向となりました。一時は守護神・大塚晶文の代わりを務めるなど、5勝4敗8セーブ、13ホールド、防御率2.44と適正を見せます。2001年には36試合に登板して、リーグ優勝に貢献しました。そして、再び日本シリーズで雄姿を見せたいところでしたが、第3戦で1死しか奪えず3失点し、それが現役最後の登板となります。巨人、近鉄2球団で67勝54敗11セーブという成績を残し現役引退しました。

引退後は、古巣2球団などのコーチを歴任し、阪神コーチに就任

現役引退後は、そのまま近鉄の投手コーチに就任すると、2004年からは8年間もの間、古巣巨人の投手コーチを歴任し、内海哲也、山口鉄也らの育成に一役買いました。2013年から2年間、韓国プロ野球・斗山ベアーズの二軍投手コーチを務め、2015年からは阪神タイガースの投手コーチに就任します。2016年には、岩貞祐太を覚醒させて二桁勝利を達成させました。


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