名前 | 林昌範(ハヤシマサヒロ) |
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生年月日 | 1983年9月19日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県船橋市 |
プロフィール | 市立船橋高在学。長身から投げおろされるストレートが武器で、4日間で3試合に登板して18イニング37三振を奪ったこともある。大型左腕として日本のみならず、大リーグからも注目される。2年夏、千葉県大会準決勝で完投するも敗れる。3年春、試合中に足を骨折しマウンドから遠ざかり、チームも3年連続準決勝で敗退。
2001年ドラフト会議で、巨人からは7位指名を受けて入団。2003年、先発として抜擢されてプロ初勝利を含む3勝をマーク。2005年からは中継ぎに定着して、後半はクローザーを務める。同年から54試合、62試合とチームのリリーフを支えるも、肘を痛め2007年オフにクリーニング手術。 2008年オフに日本ハムにトレード移籍。貴重な中継ぎ左腕として活躍し、2009年のリーグ優勝に貢献。日本シリーズへは巨人相手に5試合無失点の好投。2011年、5試合の登板に終わり戦力外通告。同年末に、横浜DeNAと契約。 2014年には、チーム2位の56試合に登板するなど中継ぎとして定着。オフにFA権を行使せずに残留し、異例の3年契約。しかし、2015年は不調にあえぎ、2016年は度重なる怪我で一軍登板無しに終わる。 通算成績は421試合、22勝26敗22S、99ホールド、防御率3.49、536回/03、502奪三振(2016年まで)。立船橋高卒、186センチ、80キロ。左投左打 |
高3で重度の骨折を負うも、巨人の隠し球としてドラフト7位入団
林昌範は千葉県船橋市に生まれ、友人の誘いもあって小学2年生から「飯山満シーホークス」で野球を始めます。中学時代はエースで4番とチームの中心となり、前年まで3年連続で夏の甲子園に出場していた市立船橋高校へ進学しました。投手兼外野手として2年時には、夏の県予選でマウンドにあがります。1年時に先輩たちが敗れた準決勝でも先発しましたが、リードして迎えた終盤に打ち込まれて、敗退しました。
この時点で大型左腕として、プロスカウトの注目を集めます。しかし最上級生になった4月、外野守備時に味方同士で激突し、そのまま試合に出場し続けましたが、試合後に足の重度の骨折が判明しました。夏の予選マウンドには上がれず、チームも3年連続準決勝で敗退します。各球団は指名リストから外す中、巨人は隠し球として7巡目で指名しました。
巨人史上8人目の10代で勝利するなど、先発として期待される
プロ1年目は身体作りのため一軍昇格は一度もなく、ファームでも12試合の登板で6本塁打を浴びるなど防御率6.38と散々な成績に終わります。2年目、ファームで先発として育成されると、一軍戦力不足のため、6月に昇格即先発という機会を与えられました。そしてこのチャンスで、7回1安打無失点という満点デビューを果たします。同試合では勝利投手になれませんでしたが、その後一軍に定着して、巨人10代投手として8人目となるプロ初勝利を達成しました(同年は3勝)。
中継ぎに転向して、急造クローザーを務めるなどフル回転
プロ3年目の2004年、開幕ローテーション投手に抜擢されてシーズン5試合目に先発登板します。その後も、時にはリリーフでも登板するなど、当時の堀内恒夫監督に重宝されました。しかし、そのため疲労もかさみ打ち込まれるケースが多くなります。結局同年の成績は3勝9敗、防御率4.89と数字を落としました。
2005年、先発ローテーション投手漏れしましたが、中継ぎとして適正を見せます。特に交流戦では15試合で防御率0.00と完璧な仕事をこなしました。そしてオールスター後には、クローザーに抜擢されます。同年はチーム3位の54試合に登板して、2勝2敗18セーブ、15ホールド、防御率1.61という素晴らしい成績を収めました。2006年は、チームトップの62試合に登板して4勝4敗20ホールド、防御率2.88と2年連続で好成績を残します。この間、チームは球団史上初の2年連続Bクラスという低迷期でしたが、リリーフ投手陣の支えでした。
怪我と不調で日本ハムへ移籍するも、古巣相手に意地を見せる
2007年も中継ぎとして活躍しましたが、肘と肩に故障を負います。初のオールスターにファン投票選出で出場しましたが、後半は不本意な成績に終わり、シーズン後に肘のクリーニング手術を行いました。2008年は、術後の影響でわずか11試合の出場に終わります。球速もMAX値を更新しましたが、同年オフに2対2のトレードで、日本ハムへの移籍が決まりました。
初のパ・リーグでも、宮西尚生に次ぐ左のリリーフとして存在感を見せます。交流戦では古巣巨人に対して好投を見せて、移籍後初勝利をもぎ取りました。同年は44試合に登板して、3勝2敗9ホールド、防御率3.33と復活した姿を披露します。チームもリーグ優勝を果たし、巨人との日本シリーズでも5試合に登板して、無失点と意地を見せました。2010年も中継ぎとして14ホールド、防御率2.64と安定した成績でしたが、故障がちで36試合登板に終わります。すると、負の流れが加速して、2011年はわずか5試合の出場に終わり、戦力外通告を受けました。
横浜でもリリーフとして活躍し、史上17人目の全球団勝利を達成
2012年からは、横浜DeNAベイスターズと契約して、再びセ・リーグへ復帰します。当初は、結果を残せず二軍降格となりましたが、復帰後14試合連続無失点を記録するなど持ち直しました。同年は32試合に登板して防御率1.91と好成績を残します。2013年は14試合登板に留まりましたが、2014年は、チーム2位の56試合に登板と存在感を発揮しました。その時点で、通算20勝でしたが史上17人目の全球団勝利を達成します。FA移籍することも可能でしたが、行使せずに残留すると、貴重な中継ぎ左腕に対して異例の3年契約を提示しました。
怪我でチームの戦力になれず、不退転の覚悟で契約最終年に挑む
大型契約に応えたい林昌範でしたが、2015年の初登板の試合で大炎上すると、不安定な投球が続きます。二軍で再調整し一軍に復帰しましたが、前年の安定感は戻りませんでした。同年8月には再び左肘クリーニング手術のため戦線離脱します。当然、以降の試合で登板はなく、24試合で防御率7.23に終わりました。
再起を賭けたDeNA2年目は、ルーキーイヤー以来の一軍登板ゼロに終わります。というのも、春季キャンプで左太もも肉離れ、3月に左肩骨挫傷、5月に再び左太もも肉離れと故障に泣かされました。そして2017年は、契約最終年を迎え、意地の復活に向けて奮闘中です。