名前船木和喜(フナキカズヨシ)
生年月日1975年4月27日
日本
出身北海道余市郡余市町
プロフィール余市大川小5年からジャンプを始め、余市旭中時代から頭角を現し、中3の時全国中学大会で優勝。

北照高に進み、2年の時北海道高校大会で優勝。1994年春、五輪銀メダルの八木弘和監督率いるデサントに入社。同年デビュー戦となるW杯プラニツァ大会(スロベニア)ノーマルヒルで初優勝した。1995年W杯インスブルック大会(オーストリア)で優勝し、1995-1996年総合4位。

1996-1997年4勝。1997年1月欧州ジャンプ週間総合優勝。1997-1998年W杯総合2位。1998年長野五輪ラージヒルで金メダル、ノーマルヒルで銀メダル、団体で金メダルと冬季五輪日本初のメダル3個を獲得。1999年世界選手権ノーマルヒルで初優勝、団体は2位。

同年6月デサントを退社し、日本初のプロジャンパーとして活動する。有限会社フィットを設立(後に「株式会社F.I.T」に変更)。2008年、食品卸売会社「えにし」を設立。2010年10月に観光庁よりスポーツ観光マイスターに任命。2013年、北海道メディカル・スポーツ専門学校の副校長に就任。北照高卒、173センチ、63キロ

10歳からスキーを始め、高校3年で世界を相手に戦い始める

船木和喜は、北海道余市郡余市町に生まれ、10歳でスキーを始めます。1991年の中学3年時、かつて原田雅彦が連覇を達成した全国中学校スキー大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプで優勝するなど一気に頭角を現しました。小樽北照高校に進学すると、その相手は早くも世界となります。1992年12月には、自国開催W杯札幌大会で世界デビューし27位の成績を収めました。高校卒業間際には、リレハンメル五輪が行われ、日本でもジャンプ競技が大きくクローズアップされます。というのも、ラージヒル団体で金メダル獲得目前でしたが、原田の失速によってまさかの銀メダルに終わっていました。

世界一美しいと言われたフォームで、トップスキーヤーに成長

高校卒業後は、デサントに所属してジャンプを続けます。そして1994-1995年W杯に本格参戦しますが、一気に日本のトップスキーヤーに名乗りを上げました。その初戦W杯プラニツァ大会に初出場すると、ノーマルヒルでバッケンレコード(最長不倒距離)を記録して初優勝を成し遂げます。次戦のW杯でもラージヒルで優勝するなど、ほとんどの試合でトップ10入りして、個人総合4位を達成しました。

実力もトップレベルに成長しましたが、船木和喜は美しいフォームの持ち主でも有名です。当時のトップスキーヤー同様に、V字ジャンプを取り入れていましたが、低い飛び出しから安定感ある微動だにしないフォームは完成型と言われていました。そして、自国開催の長野五輪に見事ピークをあわせていきます。1997-1998年W杯では自身最多の5勝をあげて総合2位に入り、五輪直前のスキーフライング選手権では、4本全てで飛形点満点を獲得して金メダルに輝きました。

長野五輪では日本のエースとして個人、団体で圧巻の金メダル

1998年、日本中が注目する長野五輪開催されて、エースとして臨みます。個人ノーマルヒルで銀メダルを奪うと、個人ラージヒルでも圧巻のジャンプを披露しました。2本目は132.5mの大ジャンプでしたが、何よりも五輪史上初めて5人の審判全員が飛形点20点の満点をつけるという快挙を達成します。まさに世界一美しいフォームを証明する貫禄の金メダルを奪いました。

原田雅彦も個人ノーマルヒルで銅メダルに輝き、万全の状態で団体戦を迎えます。もちろん狙うはリレハンメルで逃した金メダル唯一つであり、岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜という順で挑みました。しかし、日本チームに大きな試練が訪れます。前大会で戦犯とされた原田のジャンプの場面、中止にとなってもおかしくない大雪に見舞われました。

最悪のコンディションの中、スタートするもスピード不足のため、原田は79.5mの失敗ジャンプに終わります。船木も悪天候のあおりをうけて118mと、1本目を終えて日本は4位という窮地に陥りました。しかし、2回目に岡部、斉藤が持ち直すと、原田が起死回生の137mビッグジャンプを見せます。金メダルのチャンスが訪れて、アンカーの船木に日本中の注目が集まりました。若きエースは、いつもどおりの美しいV字ジャンプを披露し125mを記録します。ジャンパーたちが、電光掲示板に釘付けとなり、日本の1位が確定すると船木のもとに歓喜の輪が出来上がりました。

プロとして独立という異例の選択をするも、ルール変更に苦しむ

一夜にして日本のヒーローとなった船木和喜は、五輪後にプレイヤーとしては異例の行動に出ます。1999年6月、デサントを退社して、自ら有限会社フィットを立ち上げて独立しました。通常のスキー選手は会社に所属しながらプレーを続けるというのが主流です。その流れに逆らうかのように、いわばプロとしてリスタートを切りました。

1998-1999年W杯がスタートすると、2戦目から4戦連続で表彰台にあがるなど好調を維持します。1999年ラムソーでの世界選手権でも、個人ノーマルヒル優勝、団体2位と変わらぬ強さを見せつけました。しかし、舟木含めた日本人選手の前に、スキー板の長さ制限など、ルール変更の壁が立ちふさがります。こうした対応に遅れ徐々に成績を落としていきました。

ソルトレイクシティ五輪で2大会連続出場するも、メダルを逃す

不調とはいえ、日本の第一人者としてソルトレイクシティ五輪を迎えます。前回同様、個人・団体の両方に出場して、ラージヒル7位、ノーマルヒル9位はいずれも日本人選手トップの成績を残しました。しかし、前回金メダルだった団体戦は5位に終わり、世界との差を痛感します。その後も、W杯に出場し続けましたが、総合30位、40位などかつての姿からは考えられないほど低迷しました。

現役選手、経営者、指導者という三足のわらじで精力的に活動中

トリノ、バンクーバーでは五輪出場権すら逃しましたが、自身は現役選手を続けます。さらに新たに食品卸会社「えにし」を設立し、収益をジャンパー育成にあてるという後進に向けた活動も開始しました。2013年には、北海道メディカル・スポーツ専門学校の副校長にも就任し、指導者としての顔も増えています。現役ジャンパー、会社経営者、指導者という三足のわらじをはきながら、日本のスキー競技人口減少に歯止めをかける活動に力を入れています。こうしたチーム舟木からは、馬淵点や勢藤優花など有力な競技者も輩出されてきました。

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