名前ネルシーニョ (バチスタ,ネルソン・ジュニオールBaptista,NelsonJunior)
生年月日1950年7月22日
ブラジル
出身サンパウロ州
プロフィール1967年17歳の時、ポンチ・プレッタでプロデビュー。以降、サンパウロ、サントスなどで18年間右サイドバックとして活躍。

現役引退後はサンパウロ州、パラナ州で最優秀新人監督賞を受賞。その後、名門パルメイラス、コリンチャンスの監督を務め、1990年ブラジル選手権1部リーグ優勝を果たす。

サウジアラビアのアル・ヒラル監督を経て、1994年7月Jリーグ・ヴェルディ川崎のヘッドコーチに就任。’95年松木監督のあとをうけて監督に昇格。同年後期、チームを優勝に導く。1996年4月成績不振のため辞任。

のちブラジルのサンパウロ監督を務めるが、1998年9月退任。その後もブラジルで多くの監督経験を積んで、2003年8月、名古屋グランパスエイト監督に就任。しかし優勝に絡めず、2005年9月に解任。

サントス、コリンチャンスなどブラジル5チームの監督歴任後、2009年7月柏レイソル監督に就任。同年はチームの低迷をとめられずJ2降格。しかし、2010年にJ2優勝、2011年にJ1優勝というJリーグ史上初の快挙達成。2012年天皇杯優勝、2013年ナビスコカップ優勝とレイソル黄金時代を牽引。

2015年からヴィッセル神戸監督に就任。2016年、2ndステージ2位、年間総合7位とクラブ史上最高位を収める。2017年は開幕4連勝も後に低迷して、8月に契約解除。サンパウロ大学体育学科卒

選手時代、サンパウロ、サントスとブラジル名門クラブを渡り歩く

ネルシーニョ(本名:バチスタ,ネルソン・ジュニオール)は、1950年ブラジルに生まれます。17歳でポンチ・プレッタに入団してプロサッカー生活をスタートさせました。1971年サンパウロFCの一員となり、1975年にはサンパウロ州選手権で優勝します。1978年からは、同じく名門のサントスに移籍すると、類まれなリーダーシップを発揮しました。ゲームメイクする能力に長け、チームの監督からも絶大の信頼を置かれます。18年間の現役生活最後を迎えたジュベントスでもチームの中心かつ、精神的支柱として活躍しました。

指導者に転身し、コリンチャンス監督時代にブラジル選手権優勝

1985年、35歳ながらECサンベント監督に就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせます。その後、プロ生活をスタートさせたポンチ・プレッタなどブラジル国内チームを率いて、最優秀新人監督賞も受賞しました。コロンビアチームの監督を経て、1990年には名門コリンチャンス監督として、ブラジル選手権で優勝を飾ります。さらにパルメイラスやアル・ヒラル(サウジアラビア)など監督としてのキャリアを積み上げました。

ヴェルディ監督で成果を残し、一時は次期日本代表監督内定

1994年7月、ヴェルディ川崎のヘッドコーチに就任のため来日します。前年、2ndステージそしてチャンピオンシップも制していた初代王者は、1994年の1stステージでは4位と優勝を逃していました。ブラジル流サッカーを目指すヴェルディでは、ネルシーニョの指導がフィットします。ラモス瑠偉、三浦知良、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史らタレントたちを巧みにまとめあげ、2ndステージ優勝、さらには2年連続の年間王者を実現させました。

1995年からは、松木安太郎の後を引き継いで監督に昇格します。日本代表であろうと調子が悪ければ容赦なくメンバーから外し、選手たちとは徹底的に対話を続けました。またマスコミを通じての選手批判は一切しなかったことから、チームには一体感が生まれます。すると1stステージ2位、2ndステージ優勝と安定した成績を残します。チャンピオンシップでは惜しくも敗れて、3年連続の年間王者は逃しました。

この実績が高く評価されて、不調が続く加茂周に代わって日本代表監督就任が内定します。しかし、当時の日本サッカー協会会長の鶴の一声で白紙に戻り、1996年シーズンが始まってすぐに監督を辞任しブラジルへ帰国しました。

さらにキャリアを積み上げ、名古屋監督就任も結果を残せず

その後、ブラジルを中心に監督としてのキャリアを重ねます。コリンチャンスではサンパウロ州選手権優勝(1997年)、サンパウロでもサンパウロ州選手権優勝(1998年)に、チャンピオンズカップ準優勝(2001年)、フラメンゴではブラジル杯準優勝(2003年)とビックタイトルを獲得しました。また、クルゼイロ監督時代は、南米選手権(1997年)を制してトヨタカップで戦うため、来日します。しかし、ドルトムントに0-2で敗れて涙を呑みました。

様々なチームでさらなる経験を積むと、2003年8月、名古屋グランパスエイト監督として再び日本に戻ってきます。しかし同年2ndステージは8位、2004年も8位、5位と悲願のJリーグ制覇はもちろん、他タイトルも獲得することなく、2005年シーズン途中の9月に解任されました。

柏レイソル監督時代、J2・J1連続優勝など多くのタイトル獲得

約2年間、再びブラジルで監督を渡り歩くと、2009年7月からは、不調が続く柏レイソルの監督に就任します。ネルシーニョは着任早々不安定だった守備の改善に着手し、失点減らしに成功しました。しかし、攻撃の完成には時間が足りず4年ぶりのJ2降格となります。2010年は、パスを繋ぐポゼッションサッカーを浸透させて、攻守にチーム力をあげました。

新加入のレアンドロ ドミンゲス、ベテラン北嶋秀朗らが一丸となって、J2優勝を実現し、1年でJ1昇格を決めましたが、2011年もその勢いを持続させます。チーム内での競争が相乗効果となって、Jリーグ史上初の、J2・J1リーグ連続優勝という快挙を成し遂げました。ネルシーニョは、最優秀監督賞を受賞し、チームとしてFIFAクラブワールドカップに出場します。世界王者相手に準決勝進出を果たして、4位の好成績を収めました。その後も継続してレイソルの指揮を任されます。2012年には天皇杯、2013年にはナビスコカップとビッグタイトルを獲得するなどレイソル黄金時代を築き上げました。

ヴィッセル神戸ではクラブ史上最高位を残すも、翌年途中に解雇

日本でも確たる実績をあげたネルシーニョは、2015年からヴィッセル神戸監督に就任します。就任1年目は、18チーム中の12位と低調に終わりましたが、2016年は2ndステージで2位とクラブ史上最高の成績で、年間総合でも7位と躍進しました。

そして本気で優勝を狙う2017年、開幕4連勝と絶好のスタートを切ります。しかしその後失速して、22試合を消化した時点で、勝ち点29の11位と低迷しました。元ドイツ代表FWルーカス・ポドルスキがようやく合流してこれからという時期でしたが、ネルシーニョの監督契約は解除されます。その後、監督代行として吉田孝行ヘッドコーチが就任しました。


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