伊藤彰について

名前 伊藤彰
生年月日 1978年12月21日
日本
出身 東京都調布市
プロフィール 静岡県八雲小3年で野球を始め、東京に移り調布リトルに入団。調布七中から鈴木監督を慕って、山梨学院大附属高に入学、平成7年甲子園で2試合に登板。8年、2年連続2度目の甲子園出場。9年ドラフト1位でヤクルトに入団。登録名をアキラとする。のち肩の手術を受け、1試合も登板できず、12年シーズン終了後引退。二軍通算成績は32試合登板、0勝2敗0S、防御率10.27

調布リトルで実績を残し、越境進学へ

伊藤彰が生まれ育ったのは東京都調布市ですが、野球を始めたころは静岡県に住んでいました。サッカーどころとして知られる静岡県でしたが、伊藤は野球に集中。3年生で野球を始めた伊藤はその才能をすぐに開花させていきました。

中学生に上がるころ、伊藤は静岡を離れて再び東京へ引っ越し。必然的に野球も東京で続けることになりましたが、伊藤が選んだのは地元中学の野球部ではなく、より高いレベルでプレーできるリトルリーグ。それも東京では屈指の強豪チームである調布リトルに入団しました。調布リトルと言えば、伊藤の前に何人ものプロ野球選手を輩出していることでも知られています。そこで伊藤は鈴木監督と言う人物に出会い、今後の人生を決定する出来事が起きました。

鈴木監督の熱心な指導によって伊藤はもともとの才能をより開花させていき、いつしか都内で伊藤の名を知らない高校野球関係者はいなくなりました。その実力の高さから伊東は都内の高校に進学することが必至と思われていましたが、間もなく伊藤の恩師とも言える鈴木が山梨県にある山梨学院大学付属高校へ監督として就任することが決まりました。

これで伊藤の考えは固まりました。東京の高校に進学するのではなく、鈴木監督の下でプレーしたいという一心で、伊藤は山梨へと越境進学をすることになりました。

新鋭山梨学院大学付属高校を2年連続甲子園へ

伊藤彰が進学することになった山梨学院大学付属高校はその名の通り、山梨学院大学の付属高校。毎年のように箱根駅伝に出場する名門大学の付属校らしく、スポーツに熱を入れている学校で、特にサッカー部、駅伝部は全国レベルの実力。ところが野球部は熱を入れている割にはさほど強くないことでも知られ、鈴木監督の招へいもそうした野球部を強化したいという目的からでした。

恩師の監督就任によって、伊藤もまたこの高校を選んだということで戦力強化にもつながり、この二人の力によって山梨学院大学付属高校は飛躍的に強豪チームへの仲間入りを果たします。

調布リトルでエースとして君臨していた伊藤にとって、エースを取るのは造作もないことのように思えましたが、主戦投手として起用されるようになったのは1年夏後の新チームになってから。持ち前の速球を駆使した本格派のピッチングで、徐々にマウンド度胸を付けていったことで大成。やがて山梨県に伊藤ありとスカウトたちの話題になりました。

左投手でありながら、伊藤は完成度の高い投手としても知られていました。希少価値の高い左投手は右と比べると指導者不足も祟って完成度が低いことが多いのですが、伊藤はかなり成熟した投手として知られ、2年生の夏になるころには伊藤の球を打てる打者は山梨県内には存在しないほどに。伊藤を擁した山梨学院大学はこの年の夏の県大会を勝ち上がってなんと決勝まで進出。その決勝でも伊藤が勝利投手となり、念願の甲子園出場を果たしました。

さらに翌96年も、伊藤はエースとして奮闘して2年連続の甲子園出場をアシスト。完成度の高い左腕投手としてプロからも注目される存在になりました。

ヤクルトのドラフト1位指名を受けて入団

山梨学院大学付属高校を2年連続で甲子園大会に導いた伊藤彰は当然のようにプロからも注目されるようになり、96年のドラフト候補生になりました。この年のドラフト候補生と言えばアトランタオリンピックで活躍した井口資仁、松中信彦、さらに入来祐作ら即戦力となる社会人、大学出身選手がほとんどで高校生はやや不作とまで称されていました。当時はドラフト指名時に逆指名制度が設けられていたため、有力な大学、社会人出身選手はドラフト前にすでに決定していることもザラ。そのため、高校生は上位指名となると逆指名を取り付けていないチームに絞られてきました。

その中でも伊藤に目を付けていたのがヤクルトスワローズと近鉄バファローズ。ともに投手陣が振るわず、将来のエース候補を求めている傾向が強いチームでしたが、伊藤の希望は在京チーム。その点でも関西に拠点を置く近鉄は不利な傾向がありました。しかし、近鉄が撤退したのには在京志向だけではなく、伊藤の健康状態にありました。

この時、甲子園での投げ過ぎが祟ったか、伊藤は左肩痛を訴えるように。当時の認識としては軽傷というものでプロ入りには問題ないとされていましたが、心配した近鉄スカウトはメディカルチェックを受けるように依頼。ところが伊藤側がこれを拒否。当時は入団前のメディカルチェックを行うということはほとんどなく、疑いすぎともとられることも。それが伊藤の気持ちを害してしまい、近鉄は伊藤の獲得から撤退。結果的にヤクルトの単独指名で伊藤は入団することになりました。

それもドラフト1位の指名と言うところにヤクルトの期待の高さもうかがえます。ちなみに伊藤から撤退した近鉄は同じ高校生左腕投手の前川克彦(PL学園)を指名しています。

左肩痛に悩まされ、一軍出場のないまま現役引退

ドラフト1位で入団した伊藤彰は背番号も「11」に決定。この番号と言えば伊藤が在籍していた調布リトルの先輩投手でなおかつ、ヤクルトのかつてのスター選手である荒木大輔の番号。荒木(アラキ)に引っ掛けて、伊藤の登録名も「アキラ」に決定。次なるスター候補生として大切に扱われることになりました。

左肩痛も当時の報道通り、軽いものとみなしていたヤクルト陣営でしたが、調べていくと左肩痛はかなりの重賞であることが判明し、伊藤はアメリカで手術を受けたのち、しばらくリハビリを余儀なくされるように。結果的にメディカルチェックを必要としていた近鉄の判断が正しかったことを裏付ける形になりました。

そして、伊藤が一軍のマウンドに立つことはとうとうありませんでした。00年を最後に現役を引退。プロ入り生活わずか4年、一軍登板ゼロのままで無念の引退となりました。

現役引退後、伊藤はセカンドキャリアのために山梨学院大学へ進学。卒業後は大学の野球部コーチとして就任し、14年には監督に就任。その後、チームを全日本大学野球選手権大会へ初めて導くなど、大学球界での名将として活躍中です。

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