名前礒貝洋光(イソガイヒロミツ)
生年月日1969年4月19日
日本
出身熊本県下益城郡小川町(現宇城市)
プロフィール河江小でサッカーを始め、竜北中で全国大会に出場。

帝京高校、東海大学とエリートコースを歩む。スペイン留学も経験。1990年大学選手権優勝、1991年日本代表。同年大学を中退してガンバ大阪に入る。

1992年両足に人工靭帯を入れる手術をし、1993年6月試合に復帰。1997年浦和レッズに移籍。MFとしてJリーグ通算135試合出場、29得点。1998年6月引退。

プロゴルファーを目指し、渡米。1999年6月アマチュアとしてスーパーマリオよみうりオープンに出場。

国際Aマッチ 2試合出場0得点。東海大学中退。

天才少年といわれ、帝京高校では1年から背番号10を背負う

礒貝洋光は、熊本県下益城郡小川町(現宇城市)に生まれ、河江小学校時代からサッカーを始めます。河江少年SSに入団すると、第5回全日本少年サッカー大会でも活躍し、早くも天才少年として脚光を浴びました。竜北中学でも全国大会に出場するなど順調に成長し、U-17日本代表に選出されます。そして、並み居る先輩たちを差し置いて、エースストライカーを務めました。

1985年、ジュニアユース日本代表たちとの出会いが契機となり、サッカーの名門・帝京高校に進学します。すると1年生からレギュラーに抜擢されて、エースナンバー背番号10を任されました。翌1986年には、U-20日本代表としてFIFAワールドユースアジア予選に出場します。帝京高校では、同期に森山泰行、本田泰人、飯島寿久らを揃い、圧倒的な攻撃力で帝京史上最強とも謳われました。それでも、中々全国制覇が出来ず、最終学年時の全国高校サッカー選手権で頂点を目指します。磯貝のゲームメイクから森山が5得点するなど順調に勝ち上がり、3回戦で強豪・東海大一校と対戦しました。同校にも澤登正朗、平沢政輝という全国屈指のプレイヤーが揃い、歴史に残るような名勝負が繰り広げられます。結局、0-0のまま決着がつかずPK戦にもつれ込み、磯貝が最後にPKを外して涙を呑みました。

東海大学でも即レギュラーを奪い、在学中に日本フル代表選出

高校時代に全国制覇を成し遂げることが出来ず、東海大学へ進学します。高校時代のライバル澤登正朗がチームメイトとなると、ともに1年生からレギュラーの座を奪いました。1学年上に山口素弘もいるなど、チームは強豪となり、1年生時から4年連続で全日本大学サッカー選手権大会決勝に進出します。うち2度優勝して、高校時代経験しなかった頂点に立ちました。

この頃、バルセロナ五輪を目指す若いチームができあがり、澤登は選出されましたが、礒貝洋光は出場資格をわずかにオーバーしていたためメンバー漏れします。ところが、1991年にはトップレベルの日本フル代表に選出されて、2試合出場も経験しました。その後のキリンカップメンバーにも選出されるなど、将来を嘱望されます。磯貝は、さらなる成長を求めて、大学を休学して半年間スペインへ留学しました。

ガンバ大阪入団後、大怪我を負いJリーグ開幕に間に合わず

当時、日本にもプロサッカーリーグ構想が実現し、1993年からJリーグとしてのスタートが決まります。1991年には、10チームが選定されて、徐々に盛り上がりを見せました。大学在学中だった礒貝洋光には、全10チームからオファーが届くほど注目されます。そして、磯貝は、馴染みがない関西を本拠とし、世界の釜本と呼ばれたストライカー釜本邦茂が指揮を執っていたパナソニックガンバ大阪を選び、大学中退して入団しました。

1992年、Jリーグ開幕を目前にしてプロサッカー選手となり、ナビスコカップ、天皇杯に出場します。ガンバには、永島昭浩、本並健治ら有名選手も揃っており、その人気も日に日に増していきました。ナビスコカップでは8位でしたが、天皇杯ではベスト8へ進出します。しかし、磯貝は大怪我を負ってしまい、両足に人工靭帯を入れる手術を受けたため、Jリーグ開幕をピッチで迎えることは出来ませんでした。

天才的なプレーとは裏腹に、チームは低迷し最下位に転落

1993年5月、華々しくJリーグが開幕し、未曾有のサッカーブームが巻き起こります。ガンバ大阪は開幕戦に勝利し、スーパールーキー松波正信の入団もあって、ヴェルディ川崎に次ぐ人気を博していました。礒貝洋光も6月に戦線復帰すると、華麗なプレーを披露し、シジマール(当時・清水エスパルス)が続けていた無失点記録を予告して破ります。同年は28試合に出場して6ゴールを収めるなど主力として活躍しましたが、10チーム中の8位に終わりました。

2年目からはチームのキャプテンを任されて、天才と言われたプレーを連発しましたがチーム状況はあがりません。左右両足から繰り出されるフリーキックや、相手の隙を就くスルーパスなど翻弄するも、年々チーム順位を下げて、3年目には総合最下位となりました。また、磯貝の評価も大きく二つに割れます。誰もが認めるテクニックを持っていたものの、プレーにムラがあり、手を抜いたかのように思われていました。

サッカー熱を失い、29歳で引退するとゴルファーに転身

1995年には、日本代表として国際Aマッチデビューを飾りましたが、これが最後の代表出場となります。そして、礒貝洋光のサッカーに対するモチベーションはどんどん薄れていきました。1996年は、20試合の出場で1ゴールに終わると、翌年浦和レッドダイヤモンズへの移籍が決まりました。

初年度に10試合で3ゴールと相変わらず天才肌のプレーを見せ付けます。しかし、翌年6月、29歳という若さであっさりと現役引退を表明しました。日本代表時代のラモス瑠偉がつけていた背番号10の次期候補者とも言われていましたが、実現しませんでした。引退から3年後に突如プロゴルファーに転身して周囲を驚かせます。プロテストに一発合格するという才能を見せましたが、ツアーで輝くことはありませんでした。

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