名前神田大介(カンダダイスケ)
生年月日1978年4月30日
日本
出身埼玉県越谷市
プロフィール小学校5年から堤根ライオンズで野球を始める。中学時代は無名だったが、埼玉・花咲徳栄高に進んで開花。最速144キロの速球投手として注目される。

1997年ドラフト5位で横浜に入団。ツーキーイヤーは2試合の登板に終わる。1998年、一軍登板は無しに終わるも、ジュニアオールスターで快投を見せる。2000年、プロ初勝利、初先発勝利と順調に階段を登る。2001年、シーズン前に肩を故障し、呼吸器系の病気を患う。同年終盤に一軍復帰するも、球速は130キロ台に落ちて、2002年現役引退。

その後、一時サラリーマンに転身後、ゴルフに目覚める。29歳から本格的にゴルフをスタートさせると、2013年にプロテスト合格。2014年には、ANAオープン出場(予選敗退)。

通算成績は20試合、4勝0敗0S、防御率1.99、40回2/3、28奪三振。花咲徳栄高卒、184センチ、87キロ、右投両打

特Aランク投手予想がある中、横浜ドラフト5位指名で入団

神田大介は埼玉県越谷市に生まれ、堤根ライオンズで野球を始めます。中学時代は、全く無名の存在でしたが、花咲徳栄高校進学後に、剛速球投手として頭角を現しました。身長184センチという長身から投げ下ろす送球は、MAX144キロを計測し、埼玉県予選でも大注目されます。しかし、3年間で甲子園には縁がありませんでした。1996年ドラフト会議が近づくと、神田の周辺が慌しくなります。当時はまだプロ志望届けがない時代でしたが、マスコミ各誌は超高校級投手として取り上げて特Aランクをつけるところすらありました。

そして運命のドラフト会議が開催されます。アトランタ五輪で活躍したメンバーが中心に上位指名され、1、2位指名選手24名中の16名が逆指名で入団しました。また指名重複による競合もなく、ドラフトの風物詩のクジ引きも行われないまま、下位指名へ突入します。神田を1位指名候補にあげる予想もありましたが、なかなか呼ばれません。そして、横浜ベイスターズは、同年の埼玉県代表として夏甲子園に出場した浦和学院から石井義人を4位で指名します。そして、その石井に続く横浜最終の5位で、神田を指名しました。

プロ1年目終盤、わずか2試合ながら一軍マウンドを経験

1997年、大矢明彦監督2年目の横浜ベイスターズは、前年までの6年連続Bクラスから抜け出し、セ・リーグで優勝争いするという快進撃を起こしました。ドラフト1位入団の川村丈夫も、1年目からローテーションに定着して二桁10勝と即戦力として活躍します。クローザー佐々木主浩へ繋げば、高確率で勝利できるという強みを持ち、打ち出したら止まらない打線で後半にヤクルトと激しく優勝を争いました。

8月終了時点で3.5ゲーム差の2位でしたが、地力のあるヤクルトに振り切られて優勝を逃します。そして、ペナントレース終盤、神田大介は一軍に昇格して初出場しました。2試合にリリーフ登板し、3イニングで3三振と自身の特徴を披露します。しかし、制球難かつ打ち込まれてしまい、勝敗無しの防御率9.00という不本意な数字が残りました。

横浜38年ぶりの日本一を達成する中、次期エース候補となる

1998年、横浜ベイスターズは権藤博が投手コーチから監督に昇格すると、自主性に任せる方針をとります。すると6月から自慢のマシンガン打線が爆発して、一気に首位を捉えました。チームが優勝争いの主役になっていたため、神田大介には出番が回ってきません。しかし、7月にはフレッシュオールスターに選出されます。1回2/3で2安打2失点でしたが、150キロの速球で3三振を奪うなど、将来のエース候補として名乗りを上げました。

同年、チームはそのまま好調を維持して、38年ぶりのリーグ優勝を実現します。ただ優勝決定日がシーズン終了間際だったこと、そして日本シリーズへ向けた調整が最優先されて、神田の一軍出場は一度もありませんでした。

故障と病気でプロとしてのキャリアを奪われて、24歳で引退

1999年も一軍登板無しに終わりましたが、2000年夏場に3年ぶりに一軍試合に登板します。リリーフで抑えた試合でチームが勝利し、プロ4年目にして嬉しい初勝利を手にしました。シーズン終盤には先発する機会も与えられて、先発としても勝利投手となります。同年は13試合に登板して防御率1.01と、首脳陣が期待するエースへの階段を確かに登り始めました。

しかし、神田大介のプロキャリアは、故障と病気によって失われます。5年目を迎えるキャンプで肩を故障すると、同時に呼吸器系の病気に蝕まれて、一時は命を落としかねない状態に陥りました。何とか克服して体力を戻し、2001年終盤には一軍で5試合に登板します。2勝をマークしましたが、自慢の球速は130キロ台までに落ち、プロとしての自信も失ったことから、翌年24歳で現役引退しました。

サラリーマンを経て、プロゴルファーとして第3の人生を歩む

まだまだ人生半分にも満たない神田大介は、サラリーマンへ転身しシステムエンジニアとして第2の人生をスタートさせます。根っからのスポーツマンの神田は、29歳のとき、ゴルフを始めました。すると、野球で味わった中途半端さを払拭したいと思い、プロゴルファーへの転身を新たな夢に設定します。サラリーマンを辞して、1年間のオーストラリア留学でゴルフの腕を磨きました。

野球という世界で一度はプロへ入った実力の持ち主は、恵まれた体格を武器に成長していきます。ゴルフを始めて4年で、チャレンジトーナメントデビューを果たしました。2011年には、「東急那須リゾートJGTOチャレンジI」の出場をかけた予選会でトップ通過します。しかし本戦では、4バーディ、4ボギーのイーブンパーでカットラインにわずか1打及ばず、無念の予選落ちとなりました。2013年9月にPGA資格認定プロテストに見事合格します。2014年には、予選敗退となりましたが、ANAオープンにも出場しました。かつてのプロ野球選手時代からは、体格が恰幅よくなりましたが、300ヤード超のドライバー飛距離を武器に、第3の人生を歩んでいます。


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