名前 | 芝草宇宙(シバクサヒロシ) |
---|---|
生年月日 | 1969年8月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 埼玉県所沢市 |
プロフィール | 名前はアポロの月面着陸に因む。愛称“ウチュウ”。小学生の時、少年野球チーム・レッドアローズに所属、中学時代は投手で4番打者として活躍。
帝京高に進学し、1987年春のセンバツに出場して準々決勝まで進出、夏には2回戦の対東北戦でカーブ、シュートを武器にノーヒットノーランを達成した。3試合連続完封して迎えたPL学園との準決勝で敗れベスト4。 1988年ドラフト6位で日本ハムに入団。1990年米国ヤンキースの教育リーグに1ケ月参加後力を伸ばし、1991年4月対ロッテ戦で初登板初完封を記録、プロ4年目での達成は史上初。2000年オーバースローからサイドスローに投球フォームを改造。 中継ぎに転向すると、2001年から4年連続50試合登板を達成。2002年には、一時クローザーとして11セーブをマーク。2005年、一軍登板無しに終わりコーチ就任要請。これを固辞してトライアウトに参加。2006年、福岡ソフトバンクホークスへテスト入団するも、同年の当番は一度もなく戦力外通告。 2007年、台湾野球・興農ブルズのテストに合格。安定した投球を続けられず5月に解雇されて、現役引退。2011年、日本ハム一軍投手コーチ。2013年からは日本ハムスカウトに転身。 NPB時代の通算成績は430試合、46勝56敗17S、防御率4.24、941回0/3、494奪三振。 CPBL時代の通算成績は16試合、2勝2敗1S、3ホールド、防御率5.84、24回2/3、12奪三振。 帝京高卒、180センチ、80キロ。右投左打。 |
甲子園でノーヒットノーランも、春夏連続でPL学園に敗退
芝草宇宙は、埼玉県所沢市で生まれ、小学生時代から野球を始めます。中学校の軟式野球部内ではエースで4番という目立った存在でしたが、県内的には無名でした。高校進学時、練習が厳しい学校を勧められて、東京の帝京高校へ進みます。新入部員の誰もが、自身よりも優れているように見えましたが、必死に練習についていきました。2年生春、チームは2年連続センバツ出場を決めます。しかし当時は背番号10の控え投手であり、甲子園マウンドを踏むことなく初戦敗退しました。
新チームとなると背番号1を与えられてエースに就任します。打線の活躍で秋季大会を制し、3年連続でセンバツ出場を決めましたが、芝草の投球内容は不安定でした。しかし、甲子園の舞台では初戦に2失点完投すると、次戦で4安打完封しベスト8に進出します。準々決勝ではPL学園に延長11回の末、敗れましたが一躍注目を浴びました。3年最後の夏は、背筋痛に悩まされます。それでも強打の帝京は、東東京大会で準決勝を3回コールド、決勝でも4本塁打で14得点と圧勝で甲子園出場を手繰り寄せました。甲子園初戦を、芝草、平山勝の継投で突破しましたが、背筋痛はピークに達します。しかし、逆に低目へのコントロールを意識したことが功を奏しました。2回戦の東北戦では8四死球ながらノーヒットノーランを達成します。その後も、連続完封して春同様にPL学園との戦いとなりました。しかし、すでに痛み止めの注射も効かなくなり、3回までに6点を失いチームも敗れます。10月の国体では、甲子園で2度敗れたPL学園にようやく勝利すると、チームに優勝をもたらしました。
日本ハム入団4年目、初登板を初完封してプロ1勝目を飾る
1987年ドラフト会議では、春夏甲子園連覇を果たしたPL学園から立浪和義、橋本清、野村弘の3選手が指名される中、日本ハムファイターズからギリギリの6位指名されます。入団3年間で一軍出場がゼロに終わると、業務提携していたニューヨークヤンキースの教育リーグへ参加しました。するとこれがきっかけとなったのか、4年目の1991年に偉業を達成します。4月にプロ初登板を初先発で迎えると、まさかの初完封で初勝利を得て周囲の度肝を抜きました。
3年連続先発ローテーション投手に抜擢も、オール負け越し
驚きのデビューを飾りましたが、その年は完封勝利の1勝に終わり、翌年も0勝と期待を裏切ります。以後、リリーフメインでローテーションの谷間に先発するというシーズンが続き、突出した成績を残せませんでした。しかしプロ9年目の1966年、上田利治監督に先発ローテーション投手に抜擢されます。グロス(17勝)、西崎幸広(14勝)、今関勝(11勝)岩本勉(10勝)に続く5番手として7勝(9敗)をマークして、初めて規定投球回数をクリアしました。1997年は3勝9敗に終わるも、1998年は2度目の規定投球回数を投げ抜いて、再び7勝とチームの2位に貢献します。3年連続で先発ローテーション投手を務めましたが、一度も勝ち越しはありませんでした。
中継ぎに転向すると、4年連続50試合登板でリリーフを支える
伸び悩みの時期を過ごす芝草宇宙は、二つの転向に取り組みます。1999年からは中継ぎメインの登板となり、翌年からは完全にリリーフ投手となりました。さらに、投球フォームをオーバースローからサイドスローへ変更し、チームでの生き残りを模索します。1999年は、まだフィットせずに、24試合登板で防御率7.26と悪化させました。
しかし2000年に、20試合登板ながらキャリアハイの防御率2.93をマークし自信を得ます。すると2001年から4年連続50試合登板して、チームのリリーフを支える存在となりました。防御率は突出した数字ではありませんでしたが、怪我などで戦線離脱することなく重宝されます。2002年には、一時クローザーを任されて11セーブをマークしました。
飽くなき挑戦を続けたベテランも、3度目の戦力外通告で引退
ところが、2005年は一転して一軍登板無しに終わり、球団からは投手コーチ就任を要請されます。当時36歳だった芝草宇宙は現役にこだわった為、戦力外通告を受けて自由契約となりました。12球団トライアウトに参加すると、福岡ソフトバンクホークスへのテスト入団を果たします。しかし、故障が響きわずか1年で再び戦力外通告を受けました。
まだプロ野球を諦めきれず、2年連続でトライアウトに臨みます。しかしNPB球団の獲得は得られませんでした。すると今度は、興農ブルズのテストに合格して台湾野球へチャレンジします。いわゆる外国人の中継ぎとして16試合に登板しましたが、防御率5.84と不安定な投球に終わり、自身3度目の戦力外通告を受けて、現役生活にピリオドを打ちました。
引退後は解説者生活を経て、2009年から1年間、社会人野球かずさマジックのコーチに就任します。2011年には、古巣日本ハムの一軍投手コーチを2シーズン務めました。2013年からは、日本ハムのスカウトに転身して、金の卵探しを担当しています。