名前村上雅則(ムラカミマサノリ)
生年月日1944年5月6日
日本
出身山梨県北都留郡七保町(現・大月市)
プロフィール法政二校時代は、1学年上のエース柴田勲の控え投手として、1961年センバツで甲子園マウンドを経験。自身3年夏は、県予選準決勝で敗退。

1963年南海に入団。翌1964年SFジァイアンツ傘下の1Aフレズノに留学。成績が認められ、日本人初の大リーガーとして2年間活躍、54試合に登板し5勝1敗9Sの成績を残した。

1966年から南海に復帰。左腕のエースとして2度のリーグ優勝に貢献。1975年阪神、1976年日本ハムと移り、1982年現役を引退。

1993年西武コーチとなる。1994年SFジャイアンツ入団30周年記念の催しを“マッシー・デー”としてサンフランシスコで開いた。1995年大リーグのOBオールスター戦に日本人として初めて出場。1999年日本初のアマ野球硬式全日本女子チーム、チーム・エネルゲンの監督に就任。

NPB時代の通算成績は566試合、103勝82敗30S、防御率3.64、1,642回1/3、758奪三振。最高勝率1回。
MLB時代の通算成績は54試合、5勝1敗9S、防御率3.43、89回1/3、100奪三振。法政二高卒、左投左打、183cm、72kg

エース柴田勲の控えで、1イニングだけ聖地マウンドを経験

村上雅則は、山梨県北都留郡七保町(現・大月市)に生まれ、山や谷を駆け回る活発な幼少期を過ごします。自然と足腰が鍛えられて、中学2年生の頃から野球を始めました。その後、当時甲子園連続出場していた強豪・法政二校に進学します。1学年先輩の柴田勲は、2年生エースとして、夏の甲子園で完璧なピッチングを披露して全国制覇しました。

さらに翌春もセンバツ出場すると、村上も2年生控え投手としてベンチ入りします。史上最強と言われたチームは、夏春連覇を果たしましたが、村上の登板は大勝した準決勝の1イニングだけでした。史上初の3季連続優勝を狙いましたが、村上の登板は一度もなく、チームも準決勝で浪商に敗れます。自身2年秋からの新チームではエースに就任しました。しかし、大先輩たちが成し遂げた偉業とは異なり、最後の夏は神奈川県予選準決勝で敗退します。こうして世間から大きな評価を得ることなく、高校生活を終えました。

南海ホークス入団後、予定通りアメリカでの野球留学を経験

中央ではほぼ無名の存在でしたが、南海ホークスの名将・鶴岡一人監督に目を付けられます。そして、村上雅則は、入団後にアメリカ野球留学を経験させてくれることを条件に契約しました。ルーキーイヤーのシーズン終盤に、プロ初登板を果たすなど3試合登板します。そして、当初の約束どおり、1964年からサンフランシスコ・ジャイアンツの傘下、1Aフレズノへ野球留学しました。

コミュニケーションに苦しみながらも、新球スクリューボールを習得し、1Aで好投を続けます。メジャーとは相当レベル差があるとはいえ、11勝7敗、防御率1.78という抜群の成績を残しました。本来、6月中旬までの予定でしたが、ホークスからの帰国要請もなくアメリカに居続けます。同年のホークスがチームとして好調で、現有戦力だけで優勝に近づいていたという背景もありました。

異例の飛び級で日本人初の大リーガーマッシームラカミ誕生

1964年9月1日、村上雅則は、1Aから2A、3Aを飛び越えて異例のメジャー昇格を果たします。即登板機会が訪れると、1イニングを無失点に抑えてメジャーデビューを飾りました。その後も貴重な中継ぎ左腕として活躍し、月末には初勝利まで転がり込みます。同年は、9試合に登板して、1勝0敗1セーブ、防御率1.80という好成績を残しました。突如現れた日本人ルーキーは、「マッシー」という愛称も付けられて、一躍大きな話題となります。翌1965年もジャイアンツと契約を交わして、帰国しました。

二重契約問題に発展し、残り1年限定となるもメジャーで活躍

元々、南海とジャイアンツとの契約では、メジャー契約も出来るという条項が含まれていました。想定外の事態に驚いた南海は、村上雅則を放出させまいと、二重契約を交わします。もちろん納得がいかないジャイアンツとの契約問題に発展しました。双方の主張は平行線をたどり、シーズンも開幕します。最終的にはコミッショナーが登場して収め、1965年の1年間だけメジャーでプレーすることとなりました。

遅れての開幕となりましたが、変わらずリリーフとして活躍して、45試合登板4勝1敗8セーブ、防御率3.75の成績を残します。ウィリー・メイズらの同僚として、ピート・ローズやサンディ・コーファックスというもはや伝説となった選手たちと戦いました。

凱旋帰国して南海に復帰すると、エースとして4度の二桁勝利

アメリカ留学する前には、ほぼ無名だった村上雅則でしたが、大リーガーの帰国となると相当な期待を背負わされます。リリーフとして46試合に登板し、6勝4敗、防御率3.08の成績でチームの優勝に貢献しました。翌年もリリーフとして活躍しましたが、期待が大き過ぎて世間の評価はむしろ低くなります。しかし、1968年から先発に回ると、本領を発揮しました。

同年、1ゲーム差で優勝を逃したものの、18勝4敗、防御率2.38で最高勝率のタイトルを手にします。その後も、3年連続二桁勝利をマークするなどエース格として活躍しました。1973年から2年間で3勝に終わると、1974年オフに阪神タイガースにトレード移籍します。新チームでは、リリーフメインに登板しましが、防御率5.12と不振が続きました。

日本で通算100勝をマークして引退後も、野球に関わり続ける

阪神在籍は1年に終わり、1976年には日本ハムファイターズに移籍します。1977年から2年連続でリーグ最多登板を果たすほど、リリーフとして定着しました。1978年には、自身5度目の二桁勝利となる12勝に10セーブでチームに貢献します。その後、徐々に出場試合数を減らしながらも、通算100勝を達成し、1982年を最後に現役引退しました。

1983年、かつて所属したサンフランシスコ・ジャイアンツのキャンプに参加します。年齢的なことから選手としての復帰は果たせませんでしたが、打撃投手として古巣のユニフォームに袖を通しました。1987年からは、日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークス、西武ライオンズとパ・リーグ3チームを投手コーチとして渡り歩きます。1995年に、野茂英雄がドジャースで大リーグデビューを果たすと、日本人第1号大リーガーとして脚光を浴びました。その後、日本初のアマ野球硬式全日本女子チーム「チーム・エネルゲン」の監督、サンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウトなど、野球に関わり続けています。


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