河口正史について
名前 | 河口正史 |
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生年月日 | 1973年2月19日 |
国 | 日本 |
出身 | 兵庫県川西市 |
プロフィール | 幼少期をアメリカで過ごす。アメフトを学ぶため早稲田本庄高校中退後、渡米。サドルバック・カレッジに進んだが体格差の限界を悟り、帰国。立命館大に進学し、平成6年オールジャパンドォーグスのメンバーに選ばれる。9年米国ナショナルフットボール・リーグ(NFL)の下部組織ワールド・リーグ(WL)の入団テストに合格。大学卒業後はアサヒビールに入社。同年からアムステルダム・アドミラルズに所属し、日本人選手として初めて米国プロフットボールリーグ(NFL)のキャンプに参加。10年の同キャンプでは9ソロタックルなどの記録を残し、米国人以外の最優秀選手ベストナショナルプレーヤーに選ばれる。のち、アサヒビールを退社。11年からラインバッカーとして先発メンバーの座を獲得。12年吉本興業とマネジメント契約。178センチ、101キロ
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アメリカで育ったことがアメフトとの出会いに
河口正史がアメリカンフットボールの世界にハマったのは幼少期の体験が大きかったと言われています。というのも、川口が子供のころに住んでいたのはアメリカ。野球やバスケットボールなどで知られる国ですが、アメリカで人気ナンバーワンのスポーツと言えば、アメフト。肉体をぶつけ合い、ボールを奪ってゴールを目指す姿はアメリカンヒーローそのもので、幼少期の川口が心を奪われたのも無理はありませんでした。
ニュージャージー州に住んでいたころからアメフトを始めた川口ですが、中学生になると家の都合で日本に帰国。しかし、アメリカと違って日本ではアメフトはマイナースポーツ。そのため部活動としてもほとんど活動することなく、中学時代の川口は野球部に所属していました。早稲田本庄高校時代にはラグビー部に入りましたが、ラグビーとアメフトは似て非なるもの。やはり物足りなかったのか、川口はカリフォルニア州にある高校のサン・クレメンテ・ハイスクールに入学。ここで本格的にアメフトの世界に入っていきました。
ハイスクールの卒業後にサドルバック・カレッジという学校に進んだ川口はここでもアメフトにのめり込んでいきましたが、ここでの選手たちとの体格差に川口は愕然とします。体格の差が最も出るスポーツだけに日本人とアメリカ人とがまともにぶつかっては勝てないと悟った川口は帰国。立命館大学に進学することになりました。
立命館大学を甲子園ボウル初優勝へ導く
立命館大学へ進学した河口正史は間もなく、大学内にあったアメフト部のパンサーズに入部。本場仕込みのプレーで川口はあっという間にレギュラーになると、強豪立命館大学を支える存在になります。
そして94年、川口は天才クォーターバックと称された東野稔らとともにチームを甲子園ボウル優勝に導きました。強豪として知られていた立命館大学ですが、甲子園ボウルはこれが初制覇。さらに川口はこの年の1月に行われたアイビーボウルでも敢闘賞を獲得するという目覚ましい活躍を見せました。
さらに川口は97年、アメリカのナショナルフットボール・リーグの下部組織であるワールド・リーグの入団テストにも合格するという快挙を成し遂げました。早い時期から多方面で活躍を見せていた川口は次第に日本のアメフトのパイオニアとして見られるようになっていきました。
そして大学卒業後にはアサヒビールに就職する一方でNFLヨーロッパへと参戦することを決め、アムステルダム・アドミラルズに入団。ここでの川口のポジションはラインバッカー。ディフェンス面に特化したポジションに就いたことで川口の個性はさらに際立ち、なんと3年間も在籍。そして3年目のシーズンになると川口はオールNFLヨーロッパに選出されるほどの選手になっていきました。
川口を強く印象付けたテレビ番組とは?
河口正史にとって、98年は忘れられないシーズンになりました。この年の川口はシーズン前にグリーンベイ・パッカーズというアメフト界の最高峰リーグであるNFLチームのキャンプに参加。日本人がNFLチームのキャンプに参加したのは川口が最初の例となり、まさに歴史的快挙を成し遂げました。
練習に参加しただけでなく、川口はこのキャンプで9ソロタックルなどの記録を残し、アメリカ人以外の最優秀選手ベストナショナルプレーヤーに選ばれます。これらの活躍もあってか、川口は本格的にアメフト選手としての高みを目指してアサヒビールを退社してしまいます。
そしてこの頃から川口は「NFLに最も近い日本人」として知られるようになりますが、中でも川口の存在を世に知らしめたのがテレビ番組「スポーツNo.1決定戦」。野球やサッカーなど、あらゆるジャンルのスポーツ選手が一堂に会し、誰が最も優れたアスリートかを競う番組で、TBSの人気番組でした。川口は99年にこの番組に初出演するとその並々ならぬ運動神経やパワーを見せつけ、毎年のように上位に君臨します。
知名度ではるかに勝る野球選手やサッカー選手らを尻目に好成績を残し続けた川口の姿は視聴者にも強く印象に残り、その名が広く知れ渡りました。
有終の美を迎え、現役引退
その後の河口正史は00年に吉本興業とマネジメント契約を結び、本格的にアメフトに参戦。この年にも川口はダラス・カウボーイズのキャンプに参加。さらに02年、03年はサンフランシスコ・フォーティナイナーズのキャンプに参加します。ところがいずれも開幕ロースターまでは残ることができませんでした。しかし、02年の8月に行われたプレシーズンマッチNFL OSAKAでスペシャルチームのメンバーとして出場。日本人として史上初となるNFLのプレシーズンマッチ出場選手と言う快挙を成し遂げています。
03年の秋以降の川口は主に日本のリーグ戦をメインに活動。Xリーグと呼ばれる日本のアメフト実業団リーグ傘下のアサヒ飲料茶レンジャーズに所属し、07年には主将の座に就きます。そして、引退を決意した08年、川口はポジションをそれまでのラインバッカーからセイフティに替え、チームを陰から支えましたが、その甲斐あって見事にチームは優勝。有終の美を飾る形で川口は現役生活を終えました。
その後、川口は指導者として活動し、15年には桜美林大学のアメフト部トレーナーに主任しています。