中西永輔について

名前 中西永輔
生年月日 1973年6月23日
日本
出身 三重県鈴鹿市
プロフィール 四日市中央工時代の平成3年高校選手権を制覇。4年ジェフ市原に入団。MFとしてナビスコ杯で活躍し、レギュラーに。攻守に活躍するチームの大黒柱。一方、9年8月日本代表入りし、10年W杯フランス大会代表。両サイドバックとすべてのDFのポジションをこなす。174センチ、76キロ

高校サッカー選手権大会優勝。三羽烏として話題

中西永輔がサッカーを始めたのは7歳の時。地元の三重県鈴鹿市にあった愛宕サッカー少年団というチームが最初でした。
後にユーティリティプレーヤーとして知られることになる中西ですが、この頃からフォワード、ミッドフィルダー、そしてディフェンダーとあらゆるポジションでプレー。この万能さが中西の最大の武器とも言えました。

サッカーは中学に入ってからも続けましたが、当時はJリーグ創設前ということであまりユースチームも盛んではありませんでした。そのため、地元で屈指のプレーヤーだった中西でしたが全国的にはまだまだ無名の存在。
この中西が知られるようになったのは高校時代。三重県でも屈指のサッカー強豪校として知られる四日市中央工業高校に進学してからのことでした。

この学校には中西の同級生とともに小倉隆史、中田一三と素質豊かな選手が揃い、この3人は「四中工三羽烏」と称されるように。三重県屈指の強豪校として、高校サッカーの花形大会である全国高校サッカー選手権大会に90年、91年と2年連続で出場。91年には関東の名門校である帝京高校との対戦し優勝を飾り、高校サッカーの頂点に立ちました。
この他にも高校総体にも2年連続で出場し、91年には全国3位に入っています。

ジェフ入団。バク転パフォーマンスで人気に

高校で輝かしい実績を残していた中西永輔は高校卒業後の進路に注目されます。当時はJリーグ創設前なだけにプロリーグがなく、サッカーを続けるには実業団チームに入るか大学に進学するかしかありませんでした。しかし中西が高校3年生だった91年、プロリーグであるJリーグの開幕が2年後の93年に決定。そのため、高校卒業の92年は狭間の年となりました。

もし大学に進学していたら、4年間はプロになれないということもあり、中西はJリーグに加盟が決まっていたジェフユナイテッド市原に入団。ルーキーイヤーはミッドフィルダーとして、リーグ杯、天皇杯に出場しました。

そしてプロの水に慣れた2年目の93年、Jリーグ開幕時から中西はすでに主力選手に。ディフェンダーとして起用されるようになると32試合に出場して2得点をマーク。リーグ杯では6試合で3得点と重要な場面での活躍が目立ち、この年は39試合に出場して合計で5得点をマーク。

さらに運動神経に優れた中西はゴールを決めた直後にバク転のパフォーマンスを披露。三浦知良のカズダンスをはじめ、当時のサッカー選手はゴールを決めた後のパフォーマンスを披露するのが定番となっていましたが、中西のバク転パフォーマンスはファンからも親しまれるようになりました。

ジェフの主力として台頭。日本代表にも選出

2年目以降の中西永輔はジェフユナイテッド市原の主力選手に。毎年のようにコンスタントに試合位に出場し、本職のディフェンダー、ミッドフィルダーを守りつつ、時にはフォワードも守るという万能性も中西の魅力に。どちらかと言うと重要な局面でシュートを決めることの多かった中西はリーグ戦以上に天皇杯などの大舞台で活躍する傾向がありました。ジェフには城彰二、ピエール・リトバルスキーらが人気選手としていましたが、中西も彼らに負けないほどの人気選手になりました。

中西の万能性に注目したのが当時の日本代表監督だった加茂周。ユーティリティプレーヤーとして高い適性を誇る中西は既定人数が決まっている代表戦で重宝されました。加茂体制ではサイドバックの控え選手として加入していた中西でしたが、岡田武史監督に替わってからはその対人ディフェンスも評価されて、レギュラーのストッパー役に抜擢。ジョホールバルの歓喜も体験し、98年のフランスワールドカップにはレギュラーとして出場していました。

このフランスワールドカップ、日本は3戦全敗で予選リーグ敗退となりましたが、中西自体は大活躍。アルゼンチン戦ではクラウディオ・ロペスをマークして完封するなど、岡田監督の期待に応えました。しかし、激しいプレーはイエローカードの対象となり、結果的にジャマイカ戦ではイエローカード累積枚数2枚で出場できないという憂き目も経験しています。

Jリーグ史上10人目の通算300試合出場を達成

ワールドカップも経験し、名実ともにJリーグの顔ともいうべき選手になってきた中西永輔。
代表戦を終え、ジェフユナイテッド市原に復帰後も中心選手としてプレーしていきましたが、フィリップ・トルシエに監督が変わった後の日本代表には呼ばれはするものの、ワールドカップなどの重要な局面では招集なし。監督によって評価するポイントが異なることをよく表していました。

また、この頃から中西の風当たりも徐々に悪くなっていき、04年には長年在籍したジェフから突然の戦力外通告。すでに30歳を超える高齢になってきたこと、そしてJリーグクラブチーム共通の何点とも言える年俸の高騰が理由となり、解雇に踏み切りました。無念の思いだった中西ですが、すぐに横浜Fマリノスへ移籍。05年にはJリーグ史上10人目となる通算300試合出場を果たし、その存在感を見せつけました。

しかし、横浜へ移籍した当時から出場機会が限定的だった中西は、その後もジェフ時代を超えることがなく、06年には戦力外通告を受けることに。
その後、移籍先を模索しましたが結局見つからず、07年6月に現役を引退することになりました。


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