名前 | 森慎二(モリシンジ) |
---|---|
生年月日 | 1974年9月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 山口県岩国市 |
プロフィール | 岩国工では怪我が多く甲子園出場経験もなし。1993年新日鉄光に入社。同野球部の休部に伴い1994年新日鉄君津に移籍。1996年都市対抗では未勝利だったチームをベスト8まで進出させ、優秀選手賞を受賞。
1997年西武を逆指名してドラフト2位で入団。1年目からリリーフ投手として6勝9Sを挙げる。2000年チームの守護神として活躍して23セーブ。2002年からはセットアッパーに定着して、2年連続で最優秀中継ぎ投手タイトル獲得。 2005年オフ、ポスティングシステムを行使して、タンパベイ・デビルレイズに移籍。しかし、開幕前のオープン戦で右肩を脱臼して、全治1年の大怪我を負う。結局、マイナー含めて公式戦で1球も投げることなく契約解除。 2009年からは、現役復帰を目指して独立リーグ・石川ミリオンスターズで兼任コーチ就任。しかし選手としての復帰は叶わず、2010年から同チームの監督就任。5シーズン中、2度のグランドチャンピオンを達成するなど指導者として手腕を見せる。 2015年、古巣西武の投手コーチに就任。2017年6月、突如体調不良を訴え入院するも、そこからわずか3日後に帰らぬ人となる。享年42歳。 通算成績は431試合、44勝44敗50S、17ホールド、防御率3.39、653回0/3、755奪三振。最優秀中継ぎ投手2回。岩国工卒、188センチ、80キロ、右投右打 |
社会人時代、都市対抗での好投がプロスカウトの目に留まる
森慎二は、1974年山口県岩国市で生まれます。幼少期からずっと地元で過ごし、高校にも岩国工業高校へ進学しました。同校は、1955年に甲子園出場しましたが、その後は一度も出場することなく、決して強豪校ではありません。森が高校生当時も、2年夏の準々決勝進出が最高位で、甲子園には縁がありませんでした。
卒業後は同じく地元の新日鐵光に入社して、社会人野球の世界に入ります。しかし1年後に、経営不振によるスリム化に伴い、新日鐵君津へ転籍となりました。1996年は、チームメイトの主砲・松中信彦らとともに6年ぶりに都市対抗野球大会への出場を決めます。そして本戦には、小笠原道大も補強選手として加入しました。2回戦では、小笠原、松中のクリーンナップがともに本塁打を放ち、森が勝利投手となってベスト8進出を果たします。同大会で大会優秀選手に選出されて名を馳せると、同年ドラフト会議でも注目選手の一人となりました。
西武を逆指名して入団し、即戦力としてリーグ連覇に貢献
1996年ドラフト会議では、同僚の松中信彦含めてアトランタ五輪日本代表メンバーが上位で指名されます。長身右腕の森慎二も、即戦力として期待されて、西武ライオンズを逆指名してドラフト2位で入団しました。4月に先発でプロ初登板機会を得ましたが、3回3失点でKOされます。しかし、その後中継ぎ適正を見せると一軍に定着して、6勝2敗9セーブの好成績を残しました。2年目の1998年は、先発に中継ぎにチーム3位となる52試合に登板して、8勝8敗5セーブをマークします。2年連続でリーグ優勝に貢献しましたが、日本シリーズでもともに敗れました。
1999年は、防御率4点台と調子を落とし、成績も5勝8敗と負け越しで終わります。しかし、4年目の2000年は、開幕から好調を維持して、チームのクローザーに抜擢されました。西口文也、松阪大輔、石井貴ら強力先発陣を持つ西武は、福岡ダイエーホークスと激しく優勝を争います。森も、5勝6敗23セーブ、防御率1.83という好成績で貢献しましたが、2.5ゲーム差で優勝を逃しました。
セットアッパーとして勝利の方程式を担い、タイトル獲得
2001年からもクローザーを任されましたが、不調が続き豊田清にその座を奪われます。中継ぎとして登板しましたが、防御率3.91と相当数字を落として、28試合登板に終わりました。しかし、2002年からは、クローザー豊田に繋ぐセットアッパーに定着します。森慎二は、勝利の方程式の一角を担い、リーグ最多の71試合に登板して、6勝7敗1セーブ、防御率2.07の成績を残しました。豊田も、防御率0.78で38セーブと完璧な守護神としてチームに貢献します。優勝は逃しましたが、森が最優秀中継ぎ投手、豊田が最多セーブと二人ともタイトルを獲得しました。
長身を生かした速球とフォークボールを武器に、翌年もセットアッパーの仕事を全うします。61試合に登板して、7勝3敗2セーブ、防御率2.31の好成績を残し、2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しました。同年の西武は、圧勝でリーグを制して巨人との日本シリーズへ臨みます。しかし、松井秀喜を中心に脂の乗った巨人は、4連勝して完敗しました。
大リーグ挑戦も、選手生命を脅かす怪我で1球も投げられず
2004年からの2年間、ともに防御率4点台とリリーフとして不本意な成績に終わります。日本で丸9年間を過ごした森慎二は、西武の選手として初めてポスティングシステムによるメジャー挑戦を表明しました。そして、タンパベイ・デビルレイズが落札し、2年契約を交わして海を渡ります。脂が乗り切った時期の挑戦で、大きく期待されましたがまさかのアクシデントに見舞われました。
シーズン前のキャンプから、右肩に違和感を持ちながら過ごします。しかし、未知数の日本人として、開幕前に力を見せるため、不安を抱えながらオープン戦に登板しました。初登板した3球目を投じたとき、右肩を脱臼してマウンドに蹲ります。診断の結果は、全治1年で、投手生命を奪いかねない大怪我でした。手術を回避してリハビリに励みますが、2007年1月にメジャー契約を解除されます。さらに半年後はマイナー契約も解除されて、公式戦で1球も投げることなく無念の帰国を余儀なくされました。
独立リーグでの選手復帰は夢と終わるも、監督として手腕発揮
2009年からは、独立リーグ・石川ミリオンスターズの選手兼任投手コーチに就任します。一縷の望みを託して練習を重ねましたが、選手復帰は叶いませんでした。2010年、チームの監督に就任すると、毎シーズン優勝を実現させるなど手腕を発揮します。2011年、2013年には独立リーググランドチャンピオンを達成しました。
指導者として古巣に復帰するも、突如非業の死を遂げる
2015年からは、古巣西武ライオンズの二軍投手コーチとして復帰します。2016年には、一軍投手コーチに就任し、伸び悩んでいた大石達也を復活させるなど、チームに大きく貢献しました。自身も故障を知る男として、その後もコーチとして絶大の信頼を置かれます。しかし、2017年6月、突如体調不良を訴えて入院を余儀なくされました。球団から病気療養による休養が発表された翌日、敗血症(壊死性筋膜炎)で死去したという悲しい知らせが伝えられます。42歳というあまりにも若すぎる死に、チームメイトたちは涙に暮れました。