名前山内泰幸(ヤマウチヤスユキ)
生年月日1973年3月16日
日本
出身広島県東広島市
プロフィール小学4年生のとき野球を始め、寺西イーグルスで内野手。西条中では投手兼内野手、尾道商で投手。高3の春に中国大会で優勝。

日本体育大学に進み、1年の春から活躍、3年秋及び4年春優勝に貢献。2季連続でMVP、最優秀投手、ベストナインの3冠に輝く。また1994年48回2/3連続イニング無失点記録を樹立。同年2月全日本メンバーとしてキューバに遠征。6月日米野球に出場してMVP獲得。

1994年逆指名ドラフト1位で広島に入団。14勝10敗でセ・リーグ新人王を獲得。1996年、11勝をマークして2年連続二桁勝利達成。3年目の1997年には開幕投手を務めるも、変則フォームを研究されて不調が続く。

1999年に右肘手術して以降は、さらに成績を落として2002年オフに現役引退。2003年から三軍投手コーチ、2006年二軍投手コーチ、2010年一軍投手コーチとあらゆる組織で指導者を歴任。2014年オフに退団後は解説者に転身。

通算成績は184試合、45勝44敗1S、防御率4.40、677回0/3、508奪三振。新人王。尾道商卒、日本体育大学卒、右投右打、179センチ、79キロ

広島出身の逸材に対して、大学3年時点で異例の青田買い

山内泰幸は、広島県東広島市に生まれ、物心ついた頃からカープファンとなります。そして小学4年生から、寺西イーグルスで野球を始めました。中学時代から投手を兼務するようになり、かつて春で2度の全国準優勝を誇る尾道商業高校に進学します。投手に専念すると、エースとして君臨し、強力打線もあって最強と噂されるチームが出来上がりました。関東や関西の強豪校との練習試合でも大勝の連続でしたが、2年秋の県大会準優勝でセンバツ出場を逃します。3年春の春季大会では圧倒的な強さで中国大会を制し、夏、最後の甲子園出場チャンスに臨みました。3戦連続大勝で、なぜか相性の悪かった山陽高校との4回戦を迎えます。しかし、相性の悪さを克服できず1-2と惜敗し、最強チームは一度も甲子園で戦うことなく散りました。

卒業後は、初めて広島を離れて日本体育大学へ進学します。速球、スライダーの抜群のコンビネーションはすでに完成されており、首都大学野球リーグで躍動します。3年秋に6季ぶりのリーグ優勝を飾り、明治神宮大会では優勝候補の東北福祉大学に対して、圧巻の1安打完封を成し遂げました。山内の名前は一躍全国区となり、1年後のドラフトでの注目は避けられなくなります。すると、広島東洋カープは、山内がまだ3年生だった1994年3月に異例の1位指名を発表しました。

他球団の好条件を蹴って、広島史上初の逆指名選手として入団

広島東洋カープの作戦の裏には、1993年から採用された逆指名制度にありました。有力選手が希望球団に入団できる制度でしたが、資金力の劣る広島はことごとくふられます。そのため、久しぶりに登場した地元出身者を、是が非でも獲得したいという意思の現れでした。山内泰幸は4年春も優勝し、当時のリーグ記録48回2/3連続イニング無失点を実現します。大学日本代表にも選出されて、河原純一投手(駒大)と二枚看板で、日米大学野球選手権大会に臨むとMVPを獲得するなど活躍は凄まじいものでした。

当然、他球団も放っておくはずもなく、好条件で入団を促します。プロに入ればオリンピックでキューバを倒したいという夢が叶えられないため、大いに悩むことになりました(当時はプロ参加が認められていない)。それでも最終的にはプロ野球選手への道と地元愛を捨てきれず、広島球団史上初の逆指名で入団が決まります。そしてドラフト当日の指名からわずか20分後に契約書に判を押して、誰よりも早くプロ選手となりました。

UFO投球と呼ばれた独特フォームで14勝を挙げて新人王獲得

期待の即戦力・山内泰幸は、1995年シーズンの開幕第3戦に先発に抜擢されます。鳴り物入り入団選手の初登板に注目が集まる中、阪神を6回1/3を1失点に抑えてプロ初勝利を手にしました。その後も勢いは衰えず、5月には4勝で月間MVP受賞と広島先発陣を支えます。21試合に先発しながら、13試合でリリーフ登板するというフル回転で、同僚チェコの15勝に続く14勝をマークしました。逆指名入団の面目躍如となる新人王も受賞します。右肘を高く上げる独特のフォームは、ピンクレディーの人気曲「UFO」の振り付けに似ていることから、「UFP投球」と呼ばれ真似をする野球少年が続出しました。

2年連続二桁勝利、3年目に開幕投手抜擢も年々成績が低下

2年目も開幕第2戦に先発するなど、順調なスタートを切ります。1ヶ月もするとリリーフが弱いチーム事情から配置転換されて、クローザー佐々岡真司へつなぐ役割をつとめました。前年よりは防御率を悪化させましたが、チーム2位タイの46試合に登板して、2年目のジンクスを感じさせない投球を続けます。そして2年連続二桁勝利を達成する11勝8敗でシーズンを終えました。

1997年は、3年目24歳にして開幕投手に抜擢されます。同年は、ほぼ先発に固定されましたが、ローテーション投手の中で最も悪い防御率5.21で7勝に留まりました。再起を賭ける1998年も不調は続き、4勝7敗とチームに貢献できません。変則の投球フォームが他球団に研究されたこともあって、年々成績を落としました。

右肘故障後はさらに調子を落とし、実働8年29歳で現役引退

1999年もシーズン当初は先発でスタートするも、前年から続く不調に加えて、右肘を故障し手術に踏みきります。その後、中継ぎとして復帰しましたが、球威が戻らず3年連続の防御率5点台と大いに苦しみました。その後も、試行錯誤しながらマウンドに上がりましたが、入団当初に見せた小気味良いピッチングは消えうせます。山内泰幸が入団した当初は、チームもAクラスでしたが、自身4年目以降Bクラス常連となっていました。2002年の登板は、キャリアワーストの3試合に終わり引退を決意します。広島逆指名入団第1号選手は、実働8年で45勝を挙げましたが、29歳の若さで引退しました。

引退後コーチに就任するも、一度も優勝を味わうことなく退団

2003年から、広島の三軍投手コーチに就任します。自身の選手時代後半は、怪我との戦いだったため、経験を生かして故障者に対する指導を続けました。2006年からは二軍投手コーチ、2010年から一軍投手コーチを務めましたが、チームは暗黒時代が続きます。2013年に、16年ぶりのAクラス、翌年も同じく3位とようやく優勝を狙えるところでコーチの職を退きました。その後は、解説者に転身して、2016年の古巣の優勝を見届けます。山内泰幸は、選手、コーチ時代含めて一度も優勝の美酒を味わうことができませんでした。

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