名前 | 谷口功一(タニグチコウイチ) |
---|---|
生年月日 | 1973年5月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府四条畷市 |
プロフィール | 中学時代には大東畷ボーイズリーグで活躍、全国大会制覇を達成した。
奈良・天理高2年の1990年夏の甲子園大会ではリリーフとして登板、9回3分の2を投げ無失点におさえて優勝に貢献。1991年春・夏の大会にはエースとして出場するもともに2回戦敗退。 同年巨人にドラフト1位で指名される。2年目の1993年に、一軍登板機会を与えられるも本塁打を浴びるなど3試合登板に終わる。その後ファームで右肩を故障。その後一軍から遠ざかり、1997年柏田貴史投手とともに米国留学。同年巨人から戦力外通告。 1998年西武、1999年近鉄に移籍するも、復活できず。同年12月大リーグ・レンジャーズと3Aのマイナー契約。2000年は米国・独立リーグ3球団を渡り歩き、NPG球団復帰を目指す。2002年限りで、夢を諦めて現役引退。 2003年から大東畷ボーイズリーグのコーチ、監督に転身して全国優勝。2009年、四国・九州アイランドリーグ長崎セインツコーチ就任。現在は、居酒屋経営者として活躍中。 通算成績は7試合、0勝0敗0S、防御率7.36、7回1/3、9奪三振。天理高卒、191センチ、98キロ。右投左打 |
天理で4季連続甲子園出場し、2年夏には全国制覇を経験
谷口功一は、大阪府四条畷市に生まれ、小学生の頃から地元で軟式野球を始めます。小学生高学年当時からすでに身長165センチあり、市の大会で3連覇を成し遂げました。中学に上がると、大東畷ボーイズリーグに所属して、同級生・萩原誠とチームメイトとなります。萩原がキャプテン、谷口が副キャプテンとしてチームを牽引し、全国大会で初出場初優勝を達成しました。
その後、谷口は野球の名門・天理高校、萩原は大阪桐蔭高校に進学します。1学年上のエース南竜次の活躍もあって、自身2年時に初のセンバツ出場を決めました。2回戦の高松商業戦では、劣勢の中、先輩たちのあとを次いで聖地初マウンドを経験します。夏は奈良県予選決勝の先発を任されて、チームを2季連続甲子園出場に導きました。甲子園ではエース南が3試合連続完投して準々決勝に進出します。そこからの2試合は、谷口も登板して貢献し、1986年に続く決勝戦までたどり着きました。そして大一番で南が、8安打を打たれながらも無失点に抑えて1-0で勝利します。谷口は決勝マウンドには立てませんでしたが、全国制覇の貴重な戦力でした。
2年秋からの新チームでは当然のようにエースに就任します。近畿大会に優勝してセンバツ出場を決めましたが、2回戦で上田佳範率いる松商学園に完封されました。3年最期の夏も奈良県大会決勝で三浦大輔率いる高田商業を下して、4季連続甲子園出場します。しかし、天理は2回戦で敗れ、同大会は、萩原率いる大阪桐蔭の初出場初優勝で幕を閉じました。
巨人1位指名入団も、豪華投手陣のためファームスタート
1991年ドラフト会議では、若田部健一(4球団)、斎藤隆(2球団)、田口壮(2球団)と有力大学生に1位指名が集中します。巨人は、若田部の抽選に外れましたが、外れ1位で谷口功一を指名して会場を驚かせました。将来を嘱望される高卒ルーキーでしたが、当時の巨人先発陣は、斉藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の豪華3本柱、さらに宮本和知、木田優夫、香田勲男ら候補者も多く、ファームスタートとなりました。
身長190センチの本格派右腕は、身体創りを重視しつつ、イースタンで17試合に登板します。同年は4勝2セーブ、防御率3.62の数字を残して、ファームの新人王に当たるビッグ・ホープ賞を受賞しました。
将来を嘱望されるも、2年目に無理な登板で右肩を故障
2年目の1993年も、将来のローテーション投手入りを期待して、開幕一軍は見送られます。ドラフト1位入団らしく多くのチャンスを与えられて、イースタンで2試合連続完投勝利スタートしました。じっくり育成する方針ながら、槙原寛己の不調もあって突如、一軍昇格を果たします。前日に、ファームで6イニング投げていたにも関わらず、連日で一軍初マウンドに上がると、本塁打を浴びるなどプロの先例を浴びました。
計3試合に一軍で投げましたが、結果が伴わずファームへ逆戻りとなります。その後も、優遇されて多くの登板機会を得ましたが、連投による酷使で右肩を痛め、日常生活すら困難になるほどとなりました。
柏田貴史とともにメッツへ野球留学するも、一人日本へ帰国
故障によりかつての球威を失うと、投球フォームも崩してファームでも打ち込まれる日々が続きます。当然、一軍登板機会も全く訪れず、1994年の10.8決戦や日本シリーズ、1996年のリーグ優勝などに全く貢献できませんでした。1997年は、柏田貴史とともにニューヨーク・メッツの春季キャンプに参加します。結果を出した柏田は、そのまま入団してメジャーリーガーとなりましたが、谷口はひっそりと帰国を余儀なくされました。
日本2球団、アメリカ独立リーグを渡り歩くも、復活できず
巨人での6年間は、一軍出場3試合で勝敗無し、二軍では91試合、14勝18敗3セーブ、防御率4.59と不本意な成績に終わります。1997年オフに、巨人から戦力外通告を受けると、1998年からは西武ライオンズに移籍しました。心機一転で再起を賭けましたが、故障が癒えたわけではなく、1年で解雇されます。近鉄バファローズにテスト入団を果たしましたが、泣かず飛ばずで再び1年で解雇されました。
現役に未練があった谷口功一は、アメリカに渡り、テキサス・レンジャーズとマイナー契約を交わします。しかし、メディカルチェックで異常が発見されて、1球も投げることなく契約を解除されました。その後も、アメリカに残ってニューアーク・ベアーズ、アトランティックシティ・サーフ、ジャクソン・セネターズなど独立リーグを渡り歩きます。その間も、日本のプロ野球界復帰を目指してトライアウトに参加し続けましたが、獲得希望球団は現れませんでした。
現役引退後は、少年野球指導者さらには実業家として活躍中
2002年限りで選手に区切りを付けて、現役引退を決意します。2003年からは、かつて自身も所属した大東畷ボーイズの指導者に転身し、監督として全国優勝に導きました。教え子からプロ野球選手も誕生するなど、指導者としての成果を示します。その後、スポーツバー支配人を経て、2009年から、四国・九州アイランドリーグの長崎セインツコーチに就任しました。2011年からは実業家として、居酒屋経営に精を出し、現在も大阪府内で居酒屋「豪腕」の店長として活躍しています。