名前岡本光(オカモトコウ)
生年月日1960年8月17日
日本
出身和歌山県西牟婁郡すさみ町
プロフィール周参見(すさみ)中時代から投手で、串本高時代、甲子園出場経験なしも、南海ホークスから3位指名される。指名拒否して社会人の松下電器入り。1981年も同じく南海5位指名を受けるが拒否。

1982年ドラフト2位で4球団競合するも意中の巨人に入団。1985年に、一軍初登板して、初セーブもマーク。1986年は13セーブポイントでイースタンリーグ最優秀救援投手となり、一軍でも8試合ながら防御率0.79をマーク。1987年は一軍の戦力として台頭し、中継ぎで26試合に登板。リーグ優勝に貢献して、日本シリーズでも2試合に登板して無失点。

1989年西武に移籍。しかし、西武では1試合も登板することなく引退してトレーニングコーチに就任。2001年10月退団。

2003年、大阪府藤井寺市の市議会議員選挙に当選。2017年現在、4期目を務める。

通算成績は46試合、3勝2敗2S、防御率3.55、66回0/3、58奪三振。串本高卒、右投右打、180cm、77kg

南海ホークスから2度もドラフト指名を受けるもともに拒否

岡本光は、1960年和歌山県西牟婁郡に生まれます。地元の串本高校(現在の串本古座高校)に進学し、甲子園を目指す戦いが始まると、2年時には初戦で0-12と大敗しました。2年秋からは自身がエースとなりましたが、県大会準決勝で箕島高校に2-4で惜敗します。当時の箕島は前年センバツに全国制覇したほど常勝時代に入っていました。

全国的に無名の投手でしたが、1978年ドラフト会議で、南海ホークスから3位指名されます。しかし、それを拒否して社会人野球の松下電器に入社しました。都市対抗野球大会に出場するなど力を付けると、1981年も南海ホークスから指名を受けます(5位)。2度目のチャンスを拒否してでも、意中の巨人からの指名を待ちました。

意中の巨人からやっと指名を受け、抽選を潜り抜けて入団

1982年ドラフト会議では、甲子園5季連続出場したスター・荒木大輔の人気が高騰します。ヤクルトと巨人が1位指名で競合して、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得しました。その後、巨人は外れ1位で斉藤雅樹を獲得すると、2位で岡本光を指名します。しかし、ヤクルト、阪神、中日も同じく2位指名したため、4球団競合となりました。それでも強運を発揮して、巨人が交渉権を獲得して入団が決まります。1位の斉藤は高卒だったため、岡本は即戦力として期待されました。

そして、新人としては18年ぶりにオープン戦の開幕投手に抜擢されます。しかし、プロ1年生の前に、前年3冠王を獲得した落合博満が立ちはだかりました。いきなりランナーを置いて打席が回ると、本塁打を浴びせられます。2打席目にも、フェンス直撃の2ベースを打たれるなど、3回3安打4失点という苦いデビューでした。

3年目に一軍初登板を果たし、4年目にファームでタイトル

1983年、ペナントレースが始まると、江川卓、西本聖に新人の槙原寛己が二桁勝利、原辰徳が打点王に、松本匡史が盗塁王と活躍してリーグ優勝を飾ります。新人の岡本光には、一軍出場の出番は回ってこず、2年目の1984年もシーズンを通じてファームで過ごしました。

プロ3年目の1985年、開幕早々の4月末、嬉しい初登板機会を得ます。3点ビハインドという比較的楽な展開でリリーフ登板し、2回を1失点に抑えました。さらに10日後には、プロ初セーブとようやくプロスタートを切ります。同年は、6試合に登板して0勝0敗1セーブ、防御率4.05の成績を残しました。1986年は、さらにギアを挙げます。イースタンでもリリーフとして登板を続け、13セーブポイントで最優秀救援投手のタイトルを奪いました。同年も一軍登板は8試合でしたが、自信をつけたことで内容を格段にあげてきます。前年同様に勝敗なしの1セーブでしたが、防御率は0.79でフィニッシュしました。

中継ぎとして一軍に定着して、王貞治監督の初優勝に貢献

1987年、王貞治監督就任3年間で一度も優勝できず、4年目に突入します。絶対に負けられないシーズンがスタートすると、2年目の桑田真澄が15勝をあげる活躍でエースとなり、3割打者5人を揃える打線で強力に援護しました。岡本光は一軍に定着し、プロ初勝利を含む3勝をマークします。広田浩章とともに右のリリーフとして働いて、同年、絶対的な守護神を務めた鹿取義隆へつなぐ役割をこなしました。同年は、防御率は4.01と不本意な数字でしたが、キャリアハイの26試合に登板します。そして、王監督にとって悲願の初優勝に貢献しました。続く西武ライオンズとの日本シリーズでは、第2戦、第5戦でリリーフ登板してともに無失点に抑えます。しかし、チーム全体の質の高い走塁技術を前に、2勝4敗で完敗しました。

西武へ移籍するも出場無く引退して、トレーナーに転身

1988年は一転して出場機会が激減し、わずか6試合の登板に終わります。防御率もキャリアワーストの5.06に終わると、同年オフに白幡隆宗との交換トレードで西武ライオンズに移籍しました。前年、巨人に完勝した西武は、まさに黄金時代にあり、チーム内の競争はさらに激しくなります。特に1989年は、終盤まで近鉄、オリックスと優勝争いを展開していたため、消化試合も無く5年ぶりに一軍登板無しに終わりました。

1989年は、近鉄に逆転優勝をさらわれましたが、その原因の一つはストッパー不在でした。すると、かつてのチームメイト鹿取義隆が西武へ加入して、即守護神に定着します。リリーフとして力を見せたい岡本光でしたが、好調なチームと裏腹に全く出番が回ってきませんでした。結局シーズン途中で引退を決意し、そのまま西武の二軍トレーニングコーチに就任します。そこから、2001年までの間、実にプロ野球選手時代よりも長く、西武のトレーニングコーチを務めました。鳴り物入りで入団してきた松阪大輔の活躍も、トレーナーとして一役買います。2002年には台湾球界の誠泰太陽でもコーチを務めました。

西武退団後、藤井寺市市議会議員選挙に当選して政治家生活

2003年からは、野球界から離れて政治家に転身します。同年、大阪府藤井寺市の市議会議員選挙に当選しました。2017年現在も、4期目に突入しており精力的に活動しています。自身は野球界から名前を聞くことがなくなりましたが、甥に当たる岡本洋介が西武ライオンズの投手として活躍し、次男の大輔は、早稲田実業高校時代に怪物・清宮幸太郎とクリーンナップを組んで大きな話題となりました。自身も学生野球資格回復研修を受講したことで、学生選手への指導が可能な状態になっています。


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