名前井上真二(イノウエシンジ)
生年月日1966年7月12日
日本
出身熊本県玉名郡南関町
プロフィール熊本工高校時代、2年春に6番左翼手として出場するも初戦敗退。2年秋からは4番を務めるも、3年最期の夏は県予選決勝で敗退。

1984年ドラフト5位で巨人に入り、1年目の後半から二軍のレギュラーに定着。1986年、1987年イースタンの本塁打王。1988年一軍に上がり26試合出場、打率.267。1989年2ケ月で12本塁打を打ち、オールスターにもファン投票で選出され出場するが、同年8月対阪神戦でキーオから頭部に死球を受ける。

1990年も53試合に出場するも、翌年から外野手レギュラー争いに加われず、少ない一軍出場に留まり続ける。イースタン記録の125本塁打を放つも、1998年シーズン終了後引退。

のちフロント入りし、2001年から巨人2軍打撃兼外野守備コーチを務める。2007年からは巨人スカウト。2016年からら再び二軍打撃コーチに就任。

通算成績は289試合、443打数112安打、16本塁打、60打点、5盗塁、打率.253。熊本工卒、右投右打、181cm、85kg

名門・熊本工の4番を務めるも、最期の夏は県大会決勝で散る

井上真二は、野球大国の熊本県(玉名郡南関町)で生まれ、古くは川上哲治らを生んだ名門・熊本工業高校に進学します。入学早々の1年夏、チームは8度目となる夏の甲子園出場を決めました。その時はさすがにレギュラー獲得できず、応援席から全国ベスト8を見守ります。しかし、同年秋から主力となると、熊本県大会優勝、九州大会ベスト4で翌年のセンバツ出場を決めました。6番左翼手として甲子園に自身初出場しましたが4打席ノーヒットに終わり、チームも初戦敗退します。2年夏は県大会決勝で敗れて、2季連続甲子園出場を逃しました。

2年秋からの新チームでは、4番中堅手として活躍します。3年春のセンバツ出場を逃したため、夏が最後のチャンスとなりました。同級生エース二宮正己らとともに、県予選を勝ち進み、準決勝の九州学院戦も2-1で辛勝します。鎮西との決勝戦では、自ら2点タイムリーを放ちましたが2-4で敗れ、自身2度目の甲子園出場は泡と消えました。

ドラフト5位で巨人入団後、ファームで2年連続本塁打王

社会人の日産自動車に内定を貰っていましたが、1984年ドラフト会議で巨人から5位指名を受けます。下位指名に悩みましたが、悔いを残したくないと思い、一転してプロ野球の世界へ飛び込むことを決意しました。すると高卒ルーキーにもかかわらず、いきなり一軍出場機会を与えられます。1985年シーズン終盤に代打中心に7試合に出場して、プロ初安打を含む3安打を記録しました。

プロ2年目からは一段ギアを挙げて、イースタンながら13本塁打で本塁打王のタイトルを奪います。しかし、一軍での初安打は生まれず、得意の長打力を発揮できませんでした。3年目の一軍出場はゼロに終わりましたが、ファームで16本塁打を放ち2年連続イースタンでタイトルホルダーとなります。まさに未完の大器として大きく期待されていましたが、一軍外野手には、クロマティ、吉村禎章など打線の中軸がいたため、つけ入る隙がありませんでした。

長距離打者として突如ブレイクし、巨人に新風を巻き起こす

1988年、2年ぶりに一軍出場しましたが、26試合の出場に終わります。しかし、1989年、5年目にして大ブレイクを果たしました。5月3日に代打でプロ初本塁打を放つと、その後も結果を残し続けます。同年から原辰徳が外野手にコンバートされたため、さらに激戦区となっていましたが、5月24日からは右翼手スタメンとして名を連ねるようになりました。同タイミングで、熊本工の後輩・緒方耕一も俊足を生かして一軍で大暴れし、「熊工コンビ」として人気を博します。井上は、2ヶ月足らずで12本塁打と爆発し、オーススターゲームにもファン投票で選出されました。

頭部死球に不振が重なり成績が急降下して、新人王を逃す

巨人待望の右の大砲が誕生し、一気に新人王争いに名乗りを挙げます。ところが、絶好調だった打撃は陰りを見せ始め、緒方耕一が完全にレギュラーを奪ったにも関わらず自身はスタメンから消え始めました。そんな矢先の8月末、阪神戦で左側頭部にデッドボールを受けて、救急車で運ばれます。その後、めまいなどの症状が治まらなかったため、二軍降格となりました。

9月中に一軍復帰を果たしましたが、結局後半戦では1本も本塁打を積み上げられません。それでもチームは優勝し、新人王は逃しましたが、81試合出場で打率.298、12本塁打、38打点とすべてにおいてキャリアハイをマークしました。さらに、チームは続く日本シリーズでも、3連敗から4連勝と奇跡の逆転日本一を達成します。井上の出場は代打で2打席、そして守備固めと3試合の出場に限られましたが、ウイニングボールを手にしました。

125本塁打のイースタン記録樹立も、二度目の開花なく引退

1990年、53試合出場と前年よりも出場機会を減らして、チームのリーグ連覇にあまり貢献できません。すると翌年から、厳しい外野手レギュラー争いに加わることができず、シーズン30試合出場を達成することができなくなりました。その間、毎年のように二軍で本塁打を放ちましたが、一軍では結果を残せない日々が続きます。他球団からはトレード移籍話が絶えませんでしたが、かつての爆発力を知っている球団としては、復活を辛抱強く待ちました。常勝を義務付けられた巨人では、その後も毎年のようにFAなどで大物が加入し、徐々に井上真二の存在感は薄れていきます。イースタン記録の通算125本塁打を放ちましたが、1991年以降はわずか1本塁打に終わり、1998年限りでついに現役引退を決意しました。

一軍監督が代わる中、指導力を買われて長年コーチを歴任

現役引退後も、巨人球団職員として残り、2001年からは二軍コーチに就任します。その後、一軍監督が次々と代わりましたが、指導力には定評があり、2006年までユニフォームを着続けました。2007年からは、巨人スカウトに転身して、金の卵を発掘する立場に代わります。2016年からは、再び巨人二軍打撃コーチに復帰しています。


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