薮田安彦について
名前 | 薮田安彦 |
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生年月日 | 1973年6月19日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府岸和田市 |
プロフィール | 高校時代に甲子園に出場。新日鉄広畑を経て、平成8年ドラフト2位でロッテに入団。同年5月31日にプロ初登板、7月16日に初勝利、同月30日に初完封。183センチ、85キロ。右投右打
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目立たなかったアマチュア時代
後に中継ぎ投手として大成した薮田安彦ですが、高校時代は無名の投手でした。名門校である上宮高校に進学こそしていましたが、当時の薮田のポジションは控え投手のひとり。当時の上宮高校にはエースとして1学年下の西浦克拓、控え投手に黒田博樹がいたため、薮田の登板機会はほとんどありませんでした。そのため甲子園出場の際も、あまり目立った活躍を見せられずに高校時代を終えました。
薮田が目立つようになったのは新日本製鐵広畑に進んだ後。このままではいけないと思った薮田は球速のアップと変化球のレベルアップに磨きをかけます。これが認められて、95年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズに2位指名を受けて入団します。
先発として起用も開花せず
新日本製鐵広畑時代の薮田安彦は主に先発投手だったこともあり、入団当時は先発として期待されます。1年目の96年は5月31日にプロ入り初登板を2番手投手として飾ると、1ヵ月後の6月20日には西武ライオンズ戦で初先発。5回2/3を2失点でまとめるというクオリティスタートを記録しましたが、惜しくも勝ち星はつきませんでした。
先発で初勝利となったのはさらに1ヵ月後の7月16日のオリックスブルーウェーブ戦。イチロー、田口壮、トロイ・ニールなど当時最強を誇ったオリックス打線を8回1/3を無失点で抑えるという快投を見せました。
この年の薮田は近鉄バファローズ戦での完封勝ちをはじめ、好投するときは手が付けられない快投を見せますが、KOされる時もあっという間ということもあり、この年は4勝6敗と勝ち越すことができずにいました。その傾向は2年目以降も続き、97年には5勝9敗、最下位に沈んだ98年は2勝9敗と散々な成績に終わりました。
99年には5勝を挙げて復活しましたが、00年には故障してわずか2試合の登板に終わり未勝利。01年には先発のほかに中継ぎを限定的に行いましたが、防御率は3点台後半と今一つ。03年までの成績を見ると、防御率のベストはルーキーイヤーの3.62とパッとしない成績しか残せずに終わっていました。
YFKトリオ確立。WBCでも優勝に大きく貢献
薮田安彦が本格的に覚醒したのは04年。ボビー・バレンタインが9年ぶりに監督に復帰したことからでした。長いイニングを投げると調子を崩す薮田でしたが、1イニング限定であれば問題ないと判断したバレンタイン監督は薮田を中継ぎ投手として起用することを決断。前年まで在籍していたブライアン・シコースキーの退団で中継ぎに穴が開いたのが最大の理由でしたが、薮田はその役を見事に全うします。
この年の薮田はリーグ最多登板となる66試合に登板する大活躍を収めます。ここまで球速は最速でも140キロ台だった薮田でしたが、1イニング限定のリリーフということで思いっきり腕を振るようになったことで球速が伸びて、なんと150キロを超えるように。この活躍が翌年に繋がりました。
翌05年、薮田は勝ちパターンの中継ぎのひとりとしてプレー。7回を薮田、8回を藤田宗一、そして9回をクローザーの小林雅英でつなぐという継投策を確立したロッテは次第に勝ち始め、シーズンを2位で通過。短期決戦のクライマックスシリーズではこの中継ぎ陣の威力が増して、なんと1位通過のソフトバンクを負かして日本シリーズに進出。この勢いのままセリーグ覇者の阪神タイガースを破り、日本一に輝きました。この薮田-藤田-小林雅の継投策はいつしか、YFKと称されるようになりました。
この活躍が認められたか、06年のシーズン前に行われていたワールドベースボールクラシックの日本代表選手として選出。強豪打者たちとの対戦を薮田はぴしゃりと抑えるという活躍を収め、なんと日本代表の優勝に大きく貢献します。さらに翌07年には38ホールドを挙げて自身初のタイトル、最優秀中継ぎ投手を獲得しました。
メジャーから復帰。ロッテの下剋上日本一に貢献
薮田安彦は07年オフ、海外FA権を行使。前年のWBCの活躍もあり、海外に挑戦したいという思いから薮田はメジャーを目指しましたが、獲得したのはこの年からトレイ・ヒルマンが監督を務めることになっていたカンザスシティ・ロイヤルズ。日本ハムファイターズの監督時代に敵チームから薮田を見ていたヒルマン監督は期待しての獲得となりましたが、薮田は08年シーズン、この期待に応えられませんでした。
08年、薮田は26試合に登板して防御率5.46、マイナー降格もあるなど満足いく成績を残せずじまい。日本では最大の武器になっていた150キロ台の速球はメジャーの強打者たちには打ち頃のストレート。この打ち込まれた様子も納得せざるを得ませんでした。
翌09年はロイヤルズに籍を置いてはいましたが、マイナーに降格したままでメジャーに昇格したのは8月の末。当然ながらシーズン終了後に自由契約となり、ロッテに復帰することになりました。
ロッテでは10年、セットアッパーに復帰すると往年と変わらないピッチングを披露して、28ホールドを記録。防御率は3.15と今一つでしたが要所要所を抑えるという投球でポストシーズンでは大活躍。ロッテの下剋上日本一に大きく貢献しました。
その後も薮田は毎年のように50試合以上に登板するなど中継ぎ投手として奮闘しましたが、13年に肩を故障して全休。これをキッカケに現役を引退し、17年にわたるプロ野球生活にピリオドを打ちました。