名前 | 高橋薫(タカハシカオル) |
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生年月日 | 1976年6月24日 |
国 | 日本 |
出身 | 埼玉県川口市 |
プロフィール | 南稜高校時代、3年夏に県大会準決勝で浦和学院に敗れて、甲子園出場経験なし。
1995年日本通運に入社。1997年は、都市対抗に出場してチームの準優勝に貢献。1999年も都市対抗出場するも初戦敗退。同年シドニー五輪アジア予選日本代表に選出。決勝の韓国戦でリリーフを務めるも、1回3失点で負け投手となって日本も準優勝に終わる。 同年ロッテを逆指名し、ドラフト会議で1位指名を受ける。2000年入団。背番号14を与えられる即戦力として入団するも、故障を繰り返してファーム暮らしが続く。相次ぐ手術をするも復活できず、一軍公式戦で出場がないままに、2003年で現役引退。 2004年からロッテ球団職員に転身。一軍、二軍のマネージャーを歴任。2011年からはマリーンズ・アカデミー・コーチを務め、2017年からスカウトに転身。 一軍公式戦登板なし。南稜高卒、180センチ、76キロ。左投左打 |
南稜高校初の甲子園出場が期待されるも、準決勝で涙を呑む
高橋薫は、1976年、埼玉県川口市に生まれます。そして、野球では全くの無名校であった公立の南稜高校に進学しました。学校設立自体も1980年と歴史が浅く、激戦区埼玉県の甲子園予選でも5回戦進出が過去最高位と上位校を脅かせません。それでも1987年以降は、5年連続で4回戦以上進出とチーム力を維持していました。好投手・高橋の入学で期待がかかりましたが1年時はあっさりと初戦敗退し、2年時は3回戦敗退と野球部創部当初の頃に逆戻りします。ところが、2年秋から主将に任命されると、投打の軸となり野球の才能を一気に開花させました。
県選抜にも選出されると、投げては本格派左腕エース、打線でも中軸というまさに高橋のワンマンチームが出来上がります。そして3年最期の夏は、初戦を3-2という辛勝でスタートしました。その後、順調にトーナメントを勝ち進み、南稜高として初めて5回戦を突破します。さらに準々決勝でも聖望学園を5-0で完封して、ベスト4に名乗りを上げました。準決勝は、好投手・木塚敦志、強打者・久保田智らを擁する浦和学院であり、苦戦が予想される中、初回に南稜が2点を先制します。強豪校をも倒すのかと大きな期待がかかりましたが、3回裏に一挙4失点して逆転されると、6回にも2点を奪われて2-6で敗れました。浦和学院は、決勝でも春日部共栄を7-0で破って甲子園出場を決めます。浦和学院が県大会で、唯一苦戦を喫したのは南稜だけだったため、公立校を牽引した高橋のピッチングは大いに評価されました。
日本通運時代、プロアマ混合日本代表として五輪予選を戦う
卒業後は、社会人野球の日本通運に進み、貴重な本格派左腕として活躍します。入社3年目の1997年、チームとして4年ぶりとなる都市対抗野球大会に出場しました。同大会では、同僚の川中基嗣ら打撃陣が奮起します。初戦から12-10という打撃戦を制すると、2回戦も8-5、準々決勝では同点で延長戦に突入し、10回表に3点を勝ち越されましたが、その裏4点を取って逆転サヨナラで勝利しました。この勢いで決勝まで進出して、1964年以来の優勝を目指します。しかし、大事な試合の立ち上がり、高橋薫は失点を繰り返して、無念の敗戦投手となりました。
2年後の1999年も都市対抗出場を果たしましたが、初戦敗退します。しかし同年は、シドニーオリンピックアジア予選を戦う日本代表に選出されました。初めてプロ選手も招集された大会において、杉浦正則、森憲久とともに社会人として名を連ねます。プロアマ混成チームは、順調に決勝まで勝ちあがり、ライバル韓国と1位を賭けて戦いました。接戦の状態で、日本が3-1とリードした6回、高橋がリリーフで登板します。しかし、一挙3点を失って逆転されると、そのまま敗れて悔しい敗戦投手となりました。
逆指名の1位指名でロッテに入団し、即戦力として期待される
1999年当時は、逆指名制度があり、ドラフト会議開催前に争奪戦が繰り広げられます。そして、即戦力が期待される社会人は人気が高く、高橋薫は千葉ロッテ、阪神、広島と3球団が大きく興味を示しました。高橋は、在京志望が強かったこともあって、千葉ロッテの逆指名を決意します。そして、ロッテ1位指名での入団が決まり、金額的にも最高峰の評価、さらにかつて小宮山悟が背負っていた背番号14も与えるというロッテ球団の期待の大きさが伺えました。
相次ぐ怪我と手術で、一軍で一球も投げることなく現役引退
アマ野球時代に日本代表に選出され、ドラフト1位でプロ入団というまさにエリートコースでしたが、怪我に苦しめられます。元々、利き腕の左肘に不安を抱えての入団でしたが、ルーキーイヤーは、ファームながら開幕第2戦に登板しました。しかし、同試合で肘を痛めて同年はわずか1試合の登板に留まります。同期の2位入団・清水直行が先発として経験を積む中、秋には疲労骨折も負っていました。2年目の7月には、左上腕骨内側上顆骨骨折して、手術を余儀なくされます。この瞬間、2年目のシーズンもその後1球も投げることなく終わりを告げました。
2002年、早くも背番号14を剥奪されて、復活を目指します。同年はファームながら9試合に登板して、1勝1敗、防御率4.37という成績を残しました。しかし、肘の不安を拭い去ることができず、長いイニングを投げることができません。翌年も、6試合に登板しましたが、投球中に再び骨折を負ってしまい、負のスパイラルから抜け出すことは出来ませんでした。同年、プロ人生わずか4年にして、現役引退を決意します。逆指名して入団しましたが、一度も一軍マウンドを経験することなく、ユニフォームを脱ぎました。
引退後も裏方としてロッテに残留して、現在はスカウトに転身
引退後も球団職員として、ロッテに残留します。2004年から4年間、二軍マネージャーを務め、翌年からは一軍サブマネージャーを歴任しました。チームが、シーズン3位からの日本一という史上最大の下克上を達成した2010年は、一軍マネージャーとしてともに日本一を味わいました。2011年以降、マリーンズ・アカデミー・コーチを長年務めると、2017年からはスカウトに転身しています。