名前 | 木塚敦志(キヅカアツシ) |
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生年月日 | 1977年7月19日 |
国 | 日本 |
出身 | 埼玉県浦和市(現在のさいたま市) |
プロフィール | 浦和学院時代の2年夏、甲子園出場。明治大学に進学。大学1年の東京六大学秋季リーグ戦からスタメン入り。1998年春季リーグ戦ではストッパーとして活躍しリーグ優勝に貢献。
秋季リーグから先発に転向。日米大学野球のメンバーにも選抜された。1999年2月プロ野球・西武のキャンプに参加。同年10月対東大戦でノーヒットノーランを達成。 2000年ドラフト2位で横浜に入団。同年の開幕戦でプロ初登板すると、初勝利をマーク。同年は代役クローザーに抜擢されて7勝18セーブをマーク。2年目は中継ぎとして安定した成績で最優秀中継ぎ投手タイトル獲得。 不調に陥る時期を乗り越えると、2004年から4年連続50試合登板を達成。2005年には、クアトロKの一角としてチームのAクラス入りに貢献、2007年は、球団記録を更新する76試合に登板。2008年から酷使による影響で調子を落とし、2010年限りで現役引退。 2011年から横浜の投手コーチに就任。スカウト(2015年)時代を経て、2016年からは再びコーチ就任。 通算成績は490試合、35勝25敗24S、88ホールド、防御率3.35、462回1/3、367奪三振。最優秀中継ぎ投手1回。浦和学院卒、明治大学文学部、182センチ、85キロ。右投右打。 |
明治大学時代、エースとしてノーヒットノーランの偉業を達成
木塚敦志は、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)で生まれ、小学生時代から野球を始めます。そして当時、頭角を現していた浦和学院高校に進学しました。投げ方をサイドスローに変更すると、1年秋から早くもチームの主力となります。秋季大会決勝、関東大会初戦でともに2番手としてマウンドに上がりましたがともに敗れました。しかし、2年夏予選で、県予選決勝先発を任されると7回途中を無失点に抑えて、自身初の甲子園出場を自らの手で決めます。甲子園初戦を9回の大逆転で勝利すると、2回戦で初めて聖地マウンドに立ちました。中越高校相手にテンポのいいピッチングでゼロを並べていきましたが、味方打線も得点できず9回に突入します。すると不運なあたりが続いて1点を失うと、それが決勝点となりました。2年秋は準決勝敗退、3年夏も準々決勝敗退と県予選を突破できません。結果的に木塚の甲子園経験は、2年夏の1試合のみに終わりました。
明治大学へ進学すると、先輩の川上憲伸、小笠原孝らからエースの座を譲りうけます。3年春にはチームの抑えとして活躍してリーグ優勝を実現し、以後は先発投手に転向しました。4年時の東京大学戦では、明大の選手としては星野仙一以来となるノーヒットノーランを達成して名を馳せます。日米野球日本代表にも選出されるなど、プロスカウトの注目も集めました。
横浜入団1年目、アキレス腱だったクローザーに緊急就任
1999年ドラフト会議では、横浜ベイスターズを逆指名して2位での入団が決まります。横浜は、1位でPL学園の外野手・田中一徳を指名していたため、木塚敦志には即戦力として大いに期待を抱いていました。そして、2000年シーズンの開幕戦、延長11回という失点が許されない場面でプロ初登板を迎えます。臆することなく三者凡退に抑えると、その裏チームはサヨナラ勝利して、いきなりプロ初勝利が転がり込みました。
横浜は1998年に、絶対的なクローザー佐々木主浩を中心に38年ぶりの日本一を達成していました。しかし、1999年限りでチームを退団してメジャー移籍したため、新クローザーの選定が急務の課題となります。2000年は、新外国人ラファエル・ベタンコート、福盛和男らが代役に立てられましたが期待に応えられませんでした。権藤博監督は、この大役にルーキー木塚を抜擢すると、7勝3敗18セーブ、防御率2.89の成績で見事代役クローザーを務めます。新人王に匹敵する活躍でしたが、首位打者を獲得した同僚の金城龍彦に奪われました。
2年目もリリーフの柱として、最優秀中継ぎ投手タイトル獲得
2001年、チームの監督に西武で常勝時代を築いた森祇晶が就任すると、先発の柱の一人・斎藤隆を新クローザーに指名します。木塚敦志は中継ぎに固定されると2年目のジンクスに陥ることもなく、横浜リリーフに不可欠な存在となりました。チームトップの69試合に登板し、9勝5敗3セーブで最優秀中継ぎ投手のタイトルを奪います。チームも、5年連続Aクラスと好調を維持しました。
クアトロKの一角として、チームのAクラス浮上に大きく貢献
しかし、過去2年の酷使と他チームの研究もあって、2002年から年々防御率を悪化させます。チームも、同年から3年連続最下位に転落して一気に低迷時代に逆戻りしました。2005年、チームの監督に牛島和彦が着任すると、新外国人マーク・クルーンを新クローザーに抜擢し、木塚敦志、川村丈夫、加藤武治含めた中継ぎ4本柱を形成します。全員右投手ながら、勝ちゲームの終盤を確実に拾っていき、全員の頭文字を取った「クアトロK」としてチームを支えました。木塚は、チームトップの58試合に登板して4年ぶりの防御率2点台をマークします。4人合計で215試合、防御率2.74という素晴らしい成績でチームの3位浮上に貢献しました。
4年連続50試合登板を達成するなど、中継ぎとして長年活躍
その後、再びチームは低迷していきましたが、木塚敦志は中継ぎとして投げ続けます。2007年には、4年連続50試合登板を達成するどころか、リーグ2位そして球団新記録となる76試合に登板しました。春先に20試合連続無失点を達成するなど、安定感を保ち、通年で防御率3.06、29ホールドを記録し、オールスターゲームにも初めて出場します。そして、同年の最終戦では、424試合連続リリーフ登板のセ・リーグ新記録を達成しました。
生涯をオールリリーフで過ごし、500試合登板目前で現役引退
プロ9年目の2008年、右肩痛で5年ぶりの二軍降格となると、キャリアワーストの16試合登板に終わります。翌年、43試合登板して鉄人ぶりを見せましたが、防御率は4.83と数字を落としていました。2010年は、開幕一軍スタートとなりましたが、第2戦にサヨナラ本塁打を浴びるなど、かつての勢いを失います。その後二軍降格となると、一軍昇格できないまま戦力外通告を受けました。
あと10試合で500試合登板に迫りながら、現役引退を決意します。プロ生活11年すべてをリリーフ一筋で過ごして、先発登板は1試合もありませんでした。引退後も、そのままチームに残り一軍・二軍投手コーチに就任します。2015年は、スカウトに転身してユニフォームを脱ぎましたが、2016年から再び一軍投手コーチとして、チーム初のクライマックスシリーズ進出に貢献しました。