名前 | 藤本博史(フジモトヒロシ) |
---|---|
生年月日 | 1963年11月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府泉北郡忠岡町 |
プロフィール | 1980年、天理高校2年時に甲子園出場してベスト4。同年秋季大会も県大会で圧勝優勝するも、その後不祥事で1年間の対外試合禁止処分を受ける。
1981年ドラフト4位で南海ホークス指名を受けて入団。プロ4年目に初出場し、初安打を本塁打で飾る。1988年は、三塁手としての守備力が評価されてキャリアハイの108試合に出場。福岡ダイエー初年度には、少ない出場ながら13本塁打。 1990年から7年連続100試合出場し、1992年は初のフル出場。同年、20本塁打と長打力を発揮。1995年まで、7年連続二桁本塁打、守備位置も一塁、二塁、三塁とどこでも守る。1997年28試合出場に終わると、1998年オリックスに移籍。同年シーズン終了後、引退。 2011年からソフトバンクホークスのコーチに就任し、柳田悠岐を始めとする一流打者を育成中。 通算成績は1,103試合、3,039打数715安打、105本塁打、419打点、10盗塁、打率.235。天理高卒、右投右打、180cm、76kg |
天理最強チームと謳われるも、最後の夏は戦えずして終える
藤本博史は、大阪府泉北郡忠岡町で生まれ、天理高校に野球留学します。当時すでに強豪校だった天理は、1979年も初夏連続で甲子園に出場しました。1年生の藤本には出番がなく、チームも2回戦で敗退します。1年秋季大会では、準々決勝で敗れましたが、その後新戦力が大きく台頭しました。藤本はその打棒でチームの4番打者となると、同級生の左腕・川本和宏、右腕・小山昌男が投手2枚看板に成長します。彼らが主力となった2年夏も見事県大会を勝ち抜きました。
初の甲子園でも、延長10回の死闘を乗り切ると、熊本工、広陵など甲子園常連校を次々と蹴散らします。天理高校として初の決勝を目指しましたが、好投手・愛甲猛率いる横浜高校を前に、1-3で敗れました。それでも投打の主力がまだ2年生であり、秋の県大会でも藤本が本塁打を放つなど圧勝で制します。天理史上最強チームとも噂され、その後2度あるチャンスを生かして甲子園でも上位進出を期待されていました。しかし、不祥事が発覚して秋の近畿大会辞退を余儀なくされます。さらに、1年間の対外試合禁止処分が下り、その瞬間、最期の夏は戦わずして散ることになりました。
ドラフト4位で南海入団し、4年目に初安打を初本塁打で飾る
1981年ドラフト会議では、金村義明、槙原寛己ら甲子園を沸かせた高校生たちが1位指名されます。出場辞退となった天理高校でしたが、前年の成績さらに素質を見込まれて、続々と指名されました。近鉄バファローズが小山昌男を2位指名すると、南海ホークスは、藤本博史を4位、川本和宏を6位で指名します。一気に3名がプロ入りするという異例の事態となりました。
入団から3年間はすべてファームで過ごし、身体つくりに専念します。ウエスタンリーグに出場してプロのスピードにも慣れると、4年目の1985年、シーズン当初に先発に抜擢されてプロ初出場しました。その1試合で無安打に終わると、約2週間後の2度目の先発チャンスで初安打を決勝の2点本塁打で飾ります。同年は8試合出場で、安打はこの1本に終わりました。
堅実な守備力で三塁手レギュラーを奪い、初の100試合出場
1987年に、26試合と出場機会を増やすと、1988年には三塁手のレギュラーを奪います。開幕スタメン三塁手はルーキー若井基安でしたが、度々守備に不安を見せたため藤本博史が取って代わりました。打撃には安定感がありませんでしたが、主に下位打線を任されながら108試合に出場します。打率は.201に留まりましたが、7本塁打と意外性を見せました。
同年は球団創立50周年でしたが、オーナーの死去に伴い、球団売却話が勃発します。そして、ダイエーへの球団売却が決まり、本拠地も大阪から福岡へ移転しました。ベテランながら門田博光が本塁打、打点で2冠王を獲得しましたが、九州行きが困難でチームを離れます。大黒柱が不在となったため、藤本は主力打者として大きく期待されました。
1992年には自身初のフル出場に、20本塁打と長打力を発揮
福岡移転初年度の1989年、パ・リーグは近鉄、西武、オリックスの3球団が優勝を激しく争う大混戦となります。最終的には前年、惜しくも優勝を逃した近鉄が雪辱を果たしました。福岡ダイエーホークスは、4位でしたが上位3球団とほぼ互角に渡りあいます。前年から在籍していたバナザード、新外国人のアップショーがともに30本塁打するなど、打線の中核を担います。藤本博史は故障のため、77試合の出場に留まりましたが、13本塁打、50打点と恐怖の下位打線として活躍しました。
1990年からは100試合出場を続けて、三塁手レギュラーを守ります。そして、プロ11年目の1992年は、自身初のフル出場を達成しました。6番打者として開幕を迎えましたが、初の20本塁打をクリアするなど長打力を示したことから、時に3番にも抜擢されます。打率は.253と低迷しましたが、チーム3年ぶりの4位確保に大きく貢献しました。
守備位置を変えながらも、7年連続100試合出場&二桁本塁打
1993年には一塁手、1994年には二塁手と、器用に守備位置を変えながらもチームの主力を張ります。南海ホークス時代から、Bクラス常連と低迷が続いていましたが、生え抜きの一人として存在感を示しました。1990年から7年連続で100試合出場、そして1989年から同じく7年連続で二桁本塁打をマークします。ヒゲがトレードマークとなっており、長らくホークスの顔を務めました。
しかし、1997年、突如28試合と出場機会を激減させると、1998年シーズン序盤にオリックス・ブルーウェーブへ移籍します。新天地で42試合に出場しましたが、打率.174と不調が続き、同年限りで現役引退を決意しました。
指導者として、次世代ホークスを担う強打者を次々と育成中
現役引退後は、居酒屋を経営する実業家に転身しましたが、2011年から福岡ソフトバンクホークスのコーチに就任します。その後も一軍、二軍コーチを歴任して、柳田悠岐や上林誠知を一人前の打者に育成しました。さらには塚田正義、真砂勇介など次世代ホークスを担う若手の成長にも一役買っています。