名前山田秋親(ヤマダアキチカ)
生年月日1978年9月19日
日本
出身京都府京都市
プロフィール柊野小2年から柊野ブラックジャガーで野球を始める。西賀茂中3年で市大会準優勝。北嵯峨高では1年秋からベンチ入り。2年秋に府大会準優勝。3年夏はエースとして甲子園出場も初戦敗退。

立命館大学に進学後は、1999年春、関西学生野球リーグ・対関西学院大学戦で14三振を奪いリーグ史上20人目のノーヒットノーランを達成した。3年春から3季連続優勝に貢献。2000年日米大学野球第1戦では15奪三振の完封勝利を飾った。同年シドニー五輪は4位。

2000年逆指名でダイエーに入団。初先発初勝利をあげるも、同年は2勝にとどまり、2年目も5勝と期待を裏切る。3年目からはリリーフに転向。4年目の2004年、セットアッパーとしてキャリアハイの35試合に登板。しかし、以後怪我に苦しみ、2度の手術を敢行。4年間でわずか11試合登板未勝利に終わり、2008年オフに戦力外通告。

独立リーグ福岡レッドワーブラーズを経て、2009年トライアウト参加、2010年千葉ロッテに入団。同年リリーフとして28試合に登板するも、以後2年登板無しに終わり戦力外通告。2013年から社会人クラブチームミキハウスREDS入団。都市対抗やクラブチーム選手権で活躍し、2016年退団。2017年からはびわこ成蹊スポーツ大学野球部コーチに就任。

NPB時代の通算成績は126試合、16勝11敗1S、2ホールド、防御率4.76、266回1/3、218奪三振。
独立リーグ時代の通算成績は5試合、0勝1敗0S、防御率3.48、10回1/3、8奪三振。立命館大学卒、183センチ、83キロ。右投右打

大学時代153キロをマークするなど、速球派右腕として活躍

山田秋親は、京都府京都市で生まれ、柊野ブラックジャガーで野球を始めます。西賀茂中を経て、北嵯峨高校に進学すると1年秋から投手としてベンチ入りを果たしました。2年夏の府予選では悔しい初戦敗退でしたが、秋季大会では才能を大いに発揮します。準決勝で完封するなど準優勝でセンバツ出場をかけた近畿大会へ進出しました。しかし、初戦で大阪府大会を制した大阪学院大高に1点差で敗れ、甲子園出場を逃します。3年最期の夏の京都府予選は、準決勝から2試合連続延長戦というタフな試合となりました。4番でエースという大黒柱の山田は、その2試合を一人で投げきりついに初の聖地への切符を手にします。甲子園初戦でも、横浜高校を4安打に抑えましたが失策も絡んで終盤に逆転負けしました。

卒業後、地元の立命館大学へ進学すると、投手としてさらにギアを挙げます。3年春にはノーヒットノーランを達成するなど、初めてリーグ戦優勝を経験しました。さらに日米野球日本代表に選出されると、自身最速の153キロをマークします。そこから3季連続でリーグ戦を制するなど、大学4年間で17勝6敗、防御率0.91という好成績を残しました。

アマNo.1の即戦力投手と期待されて、ダイエーを逆指名入団

大学3年時、シドニー五輪アジア予選を戦う日本代表に選出されると、3試合に登板して松坂大輔をしのぐ奪三振率で日本に貢献します。2000年の本戦でも、石川雅規らとともに大学生ながら代表に選出されました。予選リーグで、キューバ戦、イタリア戦の先発、南アフリカ戦のリリーフと3試合に登板して決勝トーナメント進出に貢献します。準決勝、3位決定戦での登板機会は訪れず、日本は無念のメダル獲得無しに終わりました。

同年秋には、アマNo.1投手としてドラフトの超目玉となり、ダイエー、中日、阪神、オリックスで争奪戦が繰り広げられます。結果的には、パ・リーグ連覇を果たしていたダイエーの逆指名が決まりました。そして、先発の即戦力として大きく期待されます。優勝を飾っていたとはいえ、2000年のダイエー投手陣は二桁達成投手ゼロと軸となる投手不在に悩んでいました。

初先発初勝利するも、2年間でわずか7勝と期待を裏切る

リーグ3連覇を狙う2001年、王貞治監督は山田秋親を開幕第4戦の先発に起用します。8安打されながらも7回を4失点に抑えて、初先発初勝利で順調なスタートを切りました。しかし、その後の先発2試合でともに打ち込まれて、先発機会を剥奪されます。3ヵ月後から再び先発に復帰して、初完封で2勝目をあげましたが、同年は2勝2敗、防御率5.40に終わりました。

2年目は先発として開幕4連勝を飾り、その片鱗を見せ始めます。ところが、そこから5連敗を喫するなど安定感を欠き、通年でも5勝6敗、防御率5.24と不本意な成績に終わりました。入団前は、二桁勝利は確実といわれていましたが、2年間大きく期待を裏切ります。3年目にはリリーフ転向となりましたが防御率は4.15と改善は見られず、日本シリーズ登板もありませんでした。

リリーフ転向するも故障が続き、8年目オフに戦力外通告

2004年もリリーフスタートとなると、篠原貴行の故障離脱でセットアッパーを任されます。ルーキーでクローザーを務めた三瀬幸司へ繋ぐ役割に徹し、キャリアハイの35試合に登板しました。初めて防御率3点台をキープし、敗れこそしたもののプレーオフでも登板機会を得ます。リリーフとして活路を見出しましたが、その後は怪我に苦しむ日々が続きました。

2005年、故障でわずか4試合登板にとどまると、2006年は右肘手術で丸1年間を棒に振ります。さらに2007年には左膝手術のため、同年も6試合登板と復活することができません。2008年も1試合登板に終わると、同年オフにはついに戦力外通告を受けます。それでも現役続行を目指すために、右肩関節唇の手術を受けました。

独立リーグを経て、ロッテ入団を果たすも爪痕を残せず

2009年からは、四国・九州アイランドリーグの福岡レッドワーブラーズに入団して、NPB復帰を目指します。しかし怪我の状態は悪く、公式戦登板はわずか5試合に終わりました。それでも手ごたえを感じ、オフに12球団トライアウトに参加します。すると、千葉ロッテマリーンズとの契約を勝ち取り、1年でNPB復帰を果たしました。

当初は敗戦処理のリリーフを務めながらも、5月には6年ぶりの勝利投手にもなります。同年のロッテは、シーズン3位からプレーオフ、日本シリーズを勝ち抜いて史上最大の下克上日本一を達成しました。山田にポストシーズンの登板はありませんでしたが、シーズンで28試合登板と復活の第一歩を刻みます。しかし、翌年からの2シーズンは一度も登板機会がなく、2012年オフに自身二度目の戦力外通告を受けました。

その後もクラブチームで現役選手を続けて、指導者へ転身

当時34歳だった山田秋親は、社会人のクラブチームであるミキハウスREDSに入団して現役を続けます。2013年には、都市対抗野球大会に日本生命の補強選手として初出場しました。また同年の第38回全日本クラブ野球選手権でも、フル回転して敢闘賞を受賞します。2016年まで同チームでプレーして退団後は、びわこ成蹊スポーツ大学の投手コーチとして指導者生活をスタートさせました。


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