名前仲田幸司(ナカダコウジ)
生年月日1964年6月16日
日本
出身アメリカ合衆国ネバダ州
プロフィール興南高校時代は、2年夏、3年春、3年夏と甲子園に3度出場。3年時は優勝候補に挙げられるも、初戦敗退、2回戦敗退と早々に姿を消す。

1983年ドラフト3位指名で阪神に入団し、“マイク仲田”のニックネームで再び甲子園を沸かせた。1985年、初勝利を完封で飾りチームの優勝に貢献。1986年から一軍のローテーションに入る。1988年からは2年連続開幕投手に抜擢されるも、実力を見せられず万年エース候補といわれる。

9年目の1992年突如ブレイクして、14勝でチームの優勝争いを牽引。同年は194奪三振で最多奪三振のタイトル獲得。1993年も開幕投手を務めるも、一気に不調に陥る。1996年FA宣言し、ロッテに移籍。しかし移籍後2年間未勝利に終わり、1997年シーズン終了後、現役引退。

オールスター出場1回。引退後は毎日放送野球解説者として活躍。出演番組に「朝(モーニング)ダッシュ」「スポーツドーム」がある。

通算成績は335試合、57勝99敗4S、防御率4.06、1,335回0/3、1,158奪三振。最多奪三振1回。興南高卒、左投左打、182cm、80kg

優勝候補として甲子園出場するも、上位進出できず敗退

仲田幸司は、1964年アメリカネバダ州で生まれ、まもなくして沖縄県に移住します。地元の興南高校に進学すると、チームはその夏に2年連続で甲子園出場を決めました。1年生だったため出番無しに終わりましたが、2年からは早くも主力となります。同期の捕手・仲田秀司とバッテリーを組んで、チームとして3年連続夏の甲子園出場を決めました。初の聖地でも僅差の試合を完投で乗り切り、3回戦進出します。貴重な経験を得ると、2年秋からの新チームは、かつてないほどの強豪となりました。

自身を除くレギュラー8人は、100mを11秒台で走る超俊足チームとして恐れられ、秋の沖縄大会、九州大会を制します。当然のようにセンバツ出場を決めると、優勝候補に挙げられました。しかし、初戦でいきなり上宮と対戦して、延長10回サヨナラ負けを喫します。まさかの初戦大敗となりましたが、夏4年連続出場を決めて、集大成の甲子園マウンドにあがりました。そして2回戦で、ともに優勝候補に挙げられた広島商業と対戦します。戦前の予想通り接戦となりましたが、8回に決勝点を奪われて、沖縄県初の全国制覇の夢は実現できませんでした。

阪神入団2年目に完封で初勝利をあげて、リーグ優勝も経験

甲子園で主役にはなれなかったものの、その左腕はドラフトで大きく注目されます。そして3位指名ながら、阪神タイガースと南海ホークスで競合し、阪神への入団が決まりました。高卒ルーキーのため、初年度はファーム暮らしとなりましたが、2年目に早くも一軍戦力となります。シーズンが開始した4月に、リリーフでプロ初登板を飾ると、5月には初先発機会が与えられました。さらに2度目の先発では、大器の片鱗を見せ付けます。プロ初勝利を、まさかの完封で成し遂げて、一躍スターの仲間入りを果たしました。その後も先発メインで起用されて、25試合に登板します(3勝4敗)。同年の阪神は、21年ぶりのリーグ優勝を実現し、勝利の美酒を味わいました。

エース候補と期待されながらも、制球難でチームに貢献できず

3年目からは、阪神の先発ローテーション投手に定着します。奪三振率が高く、完投能力のある左腕はエース候補として、毎年大きな期待をかけられました。力強いストレートで多くの三振を奪いましたが、コントロールが悪く制球難に苦しみます。1988年からは2年連続で開幕投手を任されましたが、6勝9敗、4勝10敗の成績で、入団以降5年連続負け越しに終わりました。

それでも仲田幸司は、時に手が付けられない完璧なピッチングを見せます。1989年には、11試合連続完投勝利を続けていた斎藤雅樹(巨人)と投げ合い、自らの完封で大記録をストップさせました。しかし、安定感は持続せず、1990年から中村勝広が監督に着任すると、仲田をリリーフメインにコンバートします。同年はリーグワーストの13敗を喫し、チームも5年間で4度の最下位というまさに泥沼状態に陥っていました。

9年目に14勝で大ブレイクを果たし、阪神2位浮上に貢献

1992年、新球スライダーを会得し、投球フォームを安定させると、プロ9年目にして突如ブレイクします。同年から本拠地甲子園のラッキーゾーンが撤去され、心理的にも有利に働くと、5月には月間MVPを奪う活躍を見せるなど、エースとして活躍しました。先発登板30試合、13完投、217回1/3イニングとすべての数字でリーグ最多を記録し、14勝12敗1セーブ、194奪三振で最多奪三振のタイトルを奪います。中込伸、湯舟敏郎、野田浩司ら若い先発陣も、仲田幸司に続いて好成績を残しともにチームを牽引しました。

同年は亀山努、新庄剛志の若き外野手二人もレギュラーに定着して、終盤までヤクルトと優勝争いを展開します。最期に振り切られて2位に終わりましたが、阪神はチーム防御率トップを記録し、その中心となったのは、一皮向けたエースの仲田でした。

FAでロッテへ移籍するも目立った活躍できずに現役引退

前年の活躍もあって、1993年は自身3度目の開幕投手に抜擢されます。ところが、生命線のスライダーを他球団に研究されて、いわゆる「2年目のジンクス」に陥りました。同年は、3勝12敗、防御率6.54というあまりにも不本意な成績に終わります。1994年は、7勝6敗と自身初めて勝ち越しましたが、1995年は、初のシーズン未勝利に終わりました。

するとオフにFAで千葉ロッテマリーンズへ移籍し、サイドスローに転向して復活にかけます。しかしこの挑戦でも活路を見出すことは出来ず、移籍後2年間も未勝利に終わり戦力外通告を受けました。現役続行にこだわり、古巣阪神の入団テストに挑みます。一事は内定を受けましたが、結果的には採用されずついに現役引退を決意しました。引退後は、長らくの間野球解説者として過ごします。2010年には、京都ジャスティスベースボールクラブの投手コーチに就任しました。

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