加藤伸一について

名前 加藤伸一
生年月日 1965年7月19日
日本
出身 鳥取県倉吉市
プロフィール 高校時代に甲子園経験がないが、将来への期待を買われて、昭和59年ドラフト1位で南海(現・ダイエー)入団。2年右肩の故障で1シーズン休養。8年入団テストを受け、広島に移籍。同年9勝しカムバック賞。11年オリックスに移籍。181センチ、81キロ。右投右打

鳥取県の高校生で初のプロ野球選手に

プロ入り前の加藤伸一は全くと言っていいほどの無名投手でした。倉吉北高校のエースとして台頭した加藤でしたが、これまでプロ野球選手が一人も生まれていない野球不毛の地である鳥取県の高校生選手だったこともあり、あまり注目されずにいました。しかし、練習試合でのノーヒットノーラン、そして素晴らしい速球は鳥取県内では知れ渡っており、高校野球のレベルがさほど高くない鳥取県ならば甲子園出場もあるかと思われました。

しかし、加藤が不運だったのは自身が最上級生だった年にチームが不祥事を起こして対外試合に出られなかったこと。これで甲子園はおろか県大会さえ出場できず、加藤の名はほとんどのスカウトが知らないままでドラフト会議を迎えることになりました。

ところが、加藤に注目していたのが南海ホークス。この年のドラフト会議で南海は「江夏二世」の呼び声高かった小野和義をドラフト1位で指名しましたが、抽選で敗れ、ハズレ1位として加藤を指名。これで加藤はプロ野球選手の仲間入りを果たすことに。同時に加藤のプロ入りで鳥取県の高校生が初めてプロ野球選手になりました。

トリオ・ザ・10代のひとりとして注目される

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大きな期待を持って入団した加藤伸一。背番号も「17」を与えられるなど期待されていましたが、加藤にはその大きな期待に応えるだけの実力がありました。

加藤の武器はストレートですが、それに合わせてシュートも得意としていました。右打者の内角をえぐるシュートは投げるだけでも勇気がいるボールですが、打たせて取る攻撃的なピッチングで加藤は台頭。ルーキーイヤーの84年には33試合に登板して5勝4敗、防御率2.76という好成績をマークしました。

この年の南海には加藤のほかに藤本修二、畠山準と言った同年代の投手が活躍していたため、加藤を含めたこの3人を「トリオ・ザ・10代」とマスコミは報じ、加藤は知名度を増していきました。

翌85年には先発投手としてローテーション入りして9勝11敗と主戦投手の仲間入りを果たしましたが、この頃の加藤はとにかく安定感を欠くことが多く、どこまでいけるか、投げてみないとわからないというありさまでした。翌86年は精彩を欠いて32勝10敗と落ち込み、87年も4勝5敗と今一つ。ようやく本格化したのが88年から。南海ホークス最終年となる年でした。

この年を最後に身売りすることになった南海で先発投手として起用された加藤は負け越したものの8勝10敗とまずまずの成績をマークして先発投手としての役割を果たすように。福岡ダイエーホークスに生まれ変わった89年はエースとして自己最多の12勝を挙げる成績を残しました。

しかし、この後の加藤は故障がちになり、90年以降は6年間併せても5勝12敗。肩痛で4年も一軍登板なしの年があるなど、もうボロボロ。そのため95年オフに加藤はダイエーを戦力外通告になりました。

テスト入団の選手がカムバック賞に

チームを追われた加藤伸一は96年、テスト入団で広島カープへ移籍。もう終わった投手という風評をよそに加藤は開幕から先発ローテ入りを果たすと、あれよあれよという間に9勝をマーク。前半戦の広島の躍進を支え、この年のカムバック賞を獲得しました。

しかし、加藤の安定感のなさは相変わらずで、続く97年は研究されたのか1勝5敗と大スランプ。今度こそ終わりかと思われた98年は再び復活して8勝6敗。内角を鋭くえぐるシュートには清原和博ら、当時のセ・リーグの右の強打者たちはこぞって苦手としていました。

ところが、これだけの好成績を残したにもかかわらず、加藤はこの年のオフに戦力外通告を受けます。規定投球回にも達し、勝ち越した投手が戦力外になるなんて通常ではありえないことですが、加藤はこの年すでに33歳。そろそろ衰えが見えてくるころで、年俸の高騰も必至。となれば、若手選手の発掘に賭けたいという広島サイドの思いが働いての無念の戦力外に。

しかし、これだけの好成績を残した後だけに加藤は引く手あまた。間もなく加藤はオリックスブルーウェーブに入団。戦力外通告を受けた選手とは思えない異例の好待遇で、年俸も約3倍増となりました。

近鉄にFA移籍も振るわず

新天地オリックスで投げることになった加藤伸一。99年は6勝5敗と数字の上ではあまり振るいませんでしたが、勝つときのインパクトが素晴らしく、登板した試合では3試合で完封勝利。この年のパリーグ最多の完封数でした。しかし、00年は一転して3勝6敗と負け越し。やはり隔年投手かと思われた中で迎えた01年、加藤はオリックスのエースとして奮闘します。

この年の加藤はシュートを武器に絶好調。自身2度目の2桁勝利となる11勝を挙げてベテラン健在の面を見せます。これでオリックスの主戦投手となった加藤ですが、この頃のオリックスはイチローがメジャーに移籍したばかりで戦力不足に泣かされることもしばしば。弱体化するチームに嫌気がさした加藤はこの年のオフにFA宣言。近鉄バファローズへと移籍します。

先発候補として期待されてのFA入団でしたが、加藤の力は全盛期には遠く及ばず。04年までの3年間で加藤は8勝10敗という低調な成績に終わり、近鉄消滅と同時に戦力外通告を受けます。この年は楽天が分配ドラフトで選手をオリックスと分け合いましたが、戦力外の加藤はこの対象にもならず、さらに獲得しようという球団も現れなかったことから現役引退を決意します。

晩年は寂しいシーズンとなった加藤ですが、17年からは九州三菱の投手コーチに就任。5年ぶりにチームを都市対抗野球大会に導くなど、指導者としても適性を見せています。


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