小川博文について

名前 小川博文
生年月日 1967年3月6日
日本
出身 千葉県館山市
プロフィール 昭和63年国内20試合で4割1分をマーク、都市対抗、ソウル五輪にも出場。平成元年ドラフト2位でオリックスに入団。12年11月横浜にトレードされる。右投右打。173センチ、78キロ

社会人屈指の実力派選手として注目される

小川博文が野球を始めたのは軟式野球。中学生でも軟式野球部に所属していた普通の野球少年でしたが、そのセンスはずば抜けていました。そのため、高校進学時に当時の顧問のすすめで当時の新興校である拓大紅陵に進学しました。創部5年目と歴史の浅かった拓大紅陵ですが、千葉県内はおろか、関東中の有力選手が多数集まるというレベルの高い学校でした。この中でもまれた小川は2年生になるとセカンドのレギュラーを獲得し、秋には3番打者を打つように。そして関東大会でベスト4に進む原動力となり、チームを初の甲子園となるセンバツ大会へと導きました。

そのセンバツでは本塁打を放つなどの大活躍を見せて、チームもベスト8入り。これで小川の名前は一躍注目されるようになりました。そして高校卒業後にはプリンスホテルへと入社。入社3年目の87年には都市対抗野球大会と日本選手権に出場すると、3番打者として活躍。セカンドの守備にも定評があり、この年のベストナインにも選出されています。

社会人屈指の名選手となった小川ですが、翌年にはソウルオリンピックの野球日本代表に選出。同僚の石井丈裕、中島輝士らとともに出場し、小川はセカンドでレギュラーとして起用されるなど大活躍。決勝でアメリカに敗れましたが、この時の先発投手ジム・アボットから先制2塁打を放つなどの活躍を収め、プロからも注目されるようになります。

結局、社会人時代の通算成績は4年で4割3分、50本塁打をマーク。大型セカンドとして期待された小川はこの年のドラフト会議でオリックスブルーウェーブに2位指名を受けて入団します。

開幕スタメンを勝ち取り、チームの顔に

期待の即戦力として入団した小川博文。社会人時代はセカンドを守っていましたが、チーム事情によってショートへコンバート。当時のオリックスのショートは帯も短したすきも流しといった雰囲気のメンバーが多くいましたが、小川の加入で芯ができました。小川もオープン先頭で好成績を残したことで上田利治監督に認められ、開幕戦のスタメン出場をはじめ、レギュラーとして起用されるようになりました。

1年目の89年を115試合に出場し、2割4分7厘と言う成績を残してレギュラーに定着した小川はその後もレギュラーとしての地位を確立。3年目の91年には自身初となる130試合出場に加えて、オールスターゲーム出場、さらに自身初のタイトルとなるベストナインも獲得します。

順風満帆に見えた小川のプロキャリアですが、91年のオフに監督が土井正三にスイッチ。ルーキーに大物内野手の田口壮の加入に、勝呂嘉統のトレード加入が重なり、小川のレギュラーは安泰とは言えなくなりました。

勝負の年となった92年、小川は開幕戦こそ田口に開幕スタメンの座を奪われましたが、すぐにレギュラーの座を取り返し、自己最高打率となる2割9分1厘をマーク。さらに2年連続のオールスターゲーム出場など、意地を見せました。

翌93年、小川は松永浩美の移籍もあり、6月頃からサードへコンバート。以来、小川は主にサードを守るようになりました。

がんばろうKOBEのキャッチフレーズのもと、大活躍

土井正三から監督が仰木彬に替わった94年、小川博文はキャリアハイとなる打率3割3厘をマーク。勝負強い打撃を買われたことでシーズン終盤には3番打者に。活躍を続けた小川ですが、95年、小川やオリックスの本拠地となっていた神戸が阪神大震災によって甚大な被害を受けます。

神戸の街が沈んでしまっていたこの時、小川は「がんばろうKOBE」のキャッチフレーズとともにオリックスを優勝に導くように奮闘。レギュラーポジションのサードと福良淳一が負傷したために空席になっていたセカンドを守って120試合に出場し、2割7分2厘を記録。小川の勝負強い打撃でチームは勝ち進み、結果的にオリックスに替わってから初のリーグ優勝を達成しました。さらに翌96年もレギュラーとして活躍し、チームを初の日本一に導きました。

小川の打撃理論は卓越していて、相手投手の投球を読んで打つのではなく、来た球に合わせて打ち、タイミングが合わないなら絶好球でも打たないという理論を持っていました。このハイレベルな理論を持つ小川は当たるときは当たりますが、ダメな時はとことんダメと言うタイプの選手に。やがて打率も2割3分に落ち込む年も増え、チームも優勝から遠ざかるように。小川自身も99年に史上5人目の全打席本塁打を記録した以外はさしたる実績を残せず、00年オフにトレードで横浜ベイスターズへと移籍します。

横浜で活躍するも、晩年は不遇に

初のセ・リーグ、初の在京球団に所属することになった小川博文。小川の獲得を熱望したのは監督の森祇晶。森の期待は高く、背番号もロバート・ローズの番号である「23」を付けることに。01年には5番打者として勝負強い打撃を見せて、自己最多となる15本塁打を記録してチームのAクラス入りに貢献しました。

ところが、この年を最後に小川は出場機会を減らして行くように。出場機会が減ったことで03年のオフにトレードを模索し、オリックスへの復帰が内定していましたが、オリックス新監督の伊原春樹の方針にあわないということでご破算に。結局04年は横浜でプレーしましたが、一度も一軍に呼ばれることなく、この年のオフに戦力外通告を受けることに。この後にトライアウト等を受けて小川は現役にこだわりましたが、オファーがかからなかったことを理由に現役を引退します。

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