中田大輔について
名前 | 中田大輔 |
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生年月日 | 1974年3月2日 |
国 | 日本 |
出身 | 石川県美川町(現:白山市) |
プロフィール | トランポリンを教えていた父の指導で、3歳からトランポリンを始める。中学卒業後、単身上京し、日体荏原高に入学。1年の時インターハイ優勝。平成7年全日本選手権初優勝。世田谷区役所勤務を経て、郷里に戻り、金沢学院大学体育教育センター教務助手。12年からトランポリンが五輪正式種目となり、シドニー五輪代表。同年10月全日本選手権6連覇。13年ワールドゲームズシンクロで川西隆由樹とペアを組み、日本人選手として初の銅メダルを獲得。同年9月プロ宣言を行い、生島ヒロシが会長を務める生島企画室に所属。10月W杯第2戦シンクロで川西とペアを組み、日本人選手として初優勝。得意技は3回宙返り2回半ひねり。オリジナル技は前方4回宙返り2分の1ひねり。13年映画「RED SHADO 赤影」に出演。165センチ、61キロ
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インターハイを2度制覇。早くから注目されるように
川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーとして活動したため、中田大輔は川崎出身というイメージがありますが、実は生まれ育ったのは石川県。父もトランポリンの指導者として名を馳せていました。そんな父を持つ中田もトランポリンの世界に入りますが、初めて中田がトランポリンを始めたのは3歳のころ。当時の日本では遊具のひとつとしてしか認識されていなかったトランポリンで熱心な指導を受けた中田はその跳躍力を飛躍的に伸ばしていきました。
中学時代からその技術の高さ、運動神経で好成績を収めていた中田は将来を嘱望されていましたが、あくまで北陸地方でのみの活躍でした。さらなるステージに向けて中田は高校進学の際に上京。東京を拠点とすることで日本の大会で更なる飛躍を誓いました。
15歳にして上京し、器械体操の指導では定評のある名門校の日体荏原高校に進学すると、中田の成績は急激に伸びていき、高校1年生になったばかりの89年には早くもインターハイに出場。トランポリンの個人競技の部門で優勝。その実力を早くも日本中にアピールします。
翌90年のインターハイでは敗れてしまい連覇はなりませんでしたが、3年生になった91年にも個人競技の部門で再度優勝。そしてこの年には全日本トランポリン競技選手権大会に出場して、Aクラス個人の部で準優勝を飾るという快挙を成し遂げました。
トランポリンの大会を総なめに
圧倒的な実力を高校時代から発揮していた中田大輔。更なる高みを目指して、高校卒業後は系列校の日本大学に進学。器械体操の部活には全国各地から実力者が揃いますが、その中でも中田の実力はけた違い。1年生のころから多くの器械体操の大会に出場し、数々のタイトルを獲得していきました。
大学時代に中田が獲得したタイトルは全日本学生トランポリン競技選手権大会の個人の部優勝を3回、全日本トランポリン競技選手権大会を1回と数々の戦いを制してきました。また世界トランポリン競技選手権に日本代表として出場したり、93年にはワールドゲームズに参加して9位に入賞したりとその活躍の幅を世界に広げていきました。
大学卒業後、中田は競技生活を続けるために世田谷区役所に勤務するように。練習時間の確保と遠征費の捻出のために、この頃の中田のタイムスケジュールはと言うと、日中は世田谷区役所で社会教育指導員として働き、勤務終了後は練習。そして夜8時からはガソリンスタンドでの徹夜勤務という重労働をこなす日々。身体を壊してしまいそうなほどのハードスケジュールですが、ひとえにトランポリンを続けたいという思いだけが中田を突き動かしていました。
中田がここまで頑張れる理由として挙がるのが、トランポリン競技の地位の確立でした。というのも中田の学生時代はオリンピックの正式種目にトランポリンが入っていませんでしたが、大学卒業後の97年に正式にオリンピックの競技の仲間入り。00年のシドニーオリンピックがその最初の大会となりました。トランポリン選手としては是が非でもオリンピックに出たいという思いが中田を動かしていきました。
オリンピックの正式種目になったことで、98年から中田は郷里に戻り、トレーニングを積むように。そして98年にはトランポリン・ワールドカップに出場し、第2戦で4位に入る活躍を見せて、世界中の注目を集めました。
不本意な成績に終わったシドニー五輪
最大目標となるシドニーオリンピックまであと2年、中田大輔はトランポリン・ワールドカップでの活躍もあり、この年のランキングでは総合7位に上昇。日本人としては屈指の好ランキングとなりました。
翌99年、オリンピック出場のためには世界トランポリン競技選手権で好成績を残して権利を得る必要がありました。それは日本のトップランカーである中田もそれは変わらず、南アフリカで行われた世界トランポリン競技選手権は大切な大会となりました。この大会で中田は好成績を残して、シドニーオリンピックでの出場権を獲得。念願のオリンピック出場が決定させました。さらに11月の行われたワールドカップ第3戦で4位の結果を残してメダル獲得に期待を寄せられました。
いよいよ迎えた2000年。シドニーオリンピックの前に行われたテストイベントで中田は4位、に入り、3月に行われた国際グレンズランドカップで優勝するなどオリンピックに向けて調整を済ませていましたが、肝心のオリンピックの練習で思わぬアクシデントに見舞われました。
その練習中、中田は練習で6メートルの高さから落下して大ケガを負います。参加自体も考えられるほどの重傷でしたが、強行出場を果たしますが、予選は最下位に転落して、オリンピックを終えました。
しかし、その後に行われた全日本トランポリン選手権では満身創痍の状態ながら優勝。大会で史上初となる6連覇を達成しました。
映画出演等で知名度も急上昇!
中田大輔は翌01年、トランポリンチーム「Style Sports club」を設立。この年の夏に行われたワールドゲームズではシンクロナイズド競技で3位に入賞。さらに10月には全日本トランポリン競技選手権に参加し、個人競技では自らの連勝記録を更新する7年連続優勝を達成しました。
返す刀で川西隆由樹と参加したシンクロナイズドでも優勝すると、その1週間後にポルトガルで開催された2001年ワールドカップシリーズ第2戦ではシンクロナイズド競技でも同じコンビで念願の世界チャンピオンに輝き、プロ選手として順調なスタートを切ることに成功しました。
その後、中田は生島ヒロシが会長を務める生島企画室に所属して芸能活動を開始。映画「RED SHADO赤影」への出演をはじめ、バラエティ番組などに出演して、知名度を広げていきました。
その後の中田は川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーに認定され、講演会・トランポリン教室などの実施や多摩川ハーフマラソン参加など地域への活動に積極的に関わるようになり、ユニフォームに「ガンバレ川崎」と入れて川崎市を世界にアピールしたり、Jリーグ・川崎フロンターレのファン感謝祭に参加して演技披露をするなど地元への貢献も多く行うようになりました。