名前酒井勉(サカイツトム)
生年月日1963年6月27日
日本
出身千葉県船橋市
プロフィール中学2年の時捕手から投手に転向。東海大浦安高を経て、大学4年の時藤田元司(当時NHK解説者)のアドバイスで横投げに変えてから力が伸び、日立製作所では社会人3年間で通算33勝。

1989年オリックスにドラフト1位で入団し、4月対ロッテ戦で初先発初完投勝利をあげる。前半は先発、後半はクローザーとしてフル回転して、新人王受賞。3年目から先発に固定されると、4年目の1992年に初の二桁10勝をマークして、オールスターに出場。

しかし、1993年シーズン中盤に難病・黄色靭帯骨化症の診断を受けて手術のため戦線離脱。オフにプロ野球史上初の複数年契約(3年)を締結。3年間リハビリに励むも、一軍マウンドに戻ることなく1996年引退。

1998年日本初の野球の専門学校・アスピア学園・関西野球学校監督に就任。2001年オリックスの二軍投手コーチ就任。その後もスカウトも歴任。2012年楽天二軍投手コーチに就任し、2013年は二軍監督代行、2015年二軍監督、2016年から再びオリックス投手コーチに復帰。

通算成績は117試合、33勝31敗14S、防御率3.78、556回2/3、395奪三振。新人王。東海大浦安高卒、東海大学卒、右投右打、181cm、78kg

サイドスロー転向が転機となり、社会人時代に頭角を現す

酒井勉は、千葉県船橋市に生まれ、船橋中学、東海大浦安高校と地元で進学します。中学時代から投手を続けており、同校として初の甲子園出場を目指しました。しかし、2年秋の県ベスト4が最高で高校生活を終えます。そして系列である東海大学に進学しました。首都大学リーグで、圧倒的な優勝回数を誇る東海大学では、入学から2年連続で完全優勝を実現します。しかし同期や下級生に好投手がいたため自身の出番は少なく、無名の存在でした。

ところが4年時に、元巨人監督の藤田元司と出会い、サイドスロー転向のアドバイスを受けます。監督時代に伸び悩んでいた斎藤雅樹に同じアドバイスを与えたことで有名ですが、酒井も腰回転がサイドスロー向きでした。フォーム転向に着手し、打たせて取るピッチングスタイルにも変更します。大学通算成績は1勝1敗にとどまりましたが、4年時も完全優勝して大学生活を締めくくりました。卒業後、社会人野球の日立製作所に進むと遅まきながら投手としての才能が開花します。3年間で33勝をマークして、1988年には初戦敗退となりましたが、都市対抗野球のマウンドも経験しました。

期待のオリックス1位指名で入団し、9勝9Sで新人王受賞

1988年ドラフト会議では、高校、大学卒業時と大きく異なり、即戦力として大きく注目されます。オリックスとロッテの2球団が1位指名で競合し、オリックスに入団しました。オリックス元年となるルーキーイヤーは、阪急ブレーブスを支えてきたサブマリン・山田久志が引退し、空いた先発の一枠を見事勝ち取ります。そして1989年シーズンの開幕第4戦に先発でプロ初登板を迎えると、9回2失点という完投で初勝利をマークしました。

その後も先発としてローテーションを守り、チームの首位ターンに貢献します。後半からは、チーム事情でクローザーを任されました。スピードこそないものの投球術を披露して、1ヵ月半程度で9セーブを積み上げます。同年は、近鉄、西武との稀に見る大混戦となり最後の最後まで優勝の行方がわかりませんでした。残り10試合をきった時点で首位に返り咲きましたが、最下位ロッテ相手に星を落としてわずか1厘差で優勝を逃します。それでも9勝7敗9セーブの好成績を残した酒井勉は、見事新人王に輝きました。

プロ4年目に初の二桁勝利を達成し、オールスターにも出場

プロ2年目も先発、リリーフ両方で起用されて6勝5敗5セーブの成績をマークします。他チームに研究されて防御率を落とすと、3年目の1991年からは、希望していた先発に固定されました。すると1992年、星野伸之、伊藤敦規と先発3本柱を形成し、自身初の二桁10勝をマークします。同年は初めてオールスターゲームにも出場して一流選手の仲間入りを果たします。1993年も、先発として3勝するなど、プロ5年目を順調にスタートさせました。

難病を負うも、プロ野球初の複数年契約で復活を目指す

しかし、1993年シーズン中盤、あまりに突然に選手生命の危機が訪れます。難病にも指定されている黄色靭帯骨化症を患っていることが判明し、痺れ、脱力、麻痺套を発症させる可能性があることから戦線離脱を余儀なくされました。まさに青天の霹靂の事態でしたが、もう一度マウンドに復帰するために、背骨の一部を摘出する大手術を受けます。同年シーズンは棒に振り、出口が見えないリハビリ生活が始まりました。オリックスとしても、酒井勉の復活を期待して、オフに3年契約という複数年契約を提示します。現代では当たり前の複数年契約ですが、酒井のケースが日本プロ野球界史上初でした。

チームが黄金時代に突入するも、復帰は叶わず現役引退

1994年、オリックスは3年目のイチローが日本プロ野球史上初のシーズン200安打を達成して、一気にスターダムにのし上がります。そして、1995年にはオリックスとして初のリーグ制覇、さらに翌年は悲願の日本一を達成しました。チームが黄金時代を迎える中、酒井勉は復帰に向けて懸命にリハビリに励みます。何とか身体は治ったものの、一軍のマウンドに戻れるほど回復することはできず、現役引退を決断しました。

自身の壮絶な経験を指導者に生かして、若手投手たちを育成

実働わずか5年で引退すると、指導者への道を歩み始めます。アスピア学園関西野球専門学校で監督歴任、解説者を経て、古巣のオリックスにコーチとして復帰しました。長いリハビリの経験を糧として指導に生かします。2004年からスカウトとしての活動を経て、再びオリックスコーチに就任すると、高卒ルーキー西勇輝を一人前の投手に育成しました。

若手投手の育成に定評があった酒井勉は、2012年から東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍投手コーチに着任しました。2013年に、星野仙一監督が自身と同じ黄色靭帯骨化症を患った際には、二軍監督代行としてチームを支えます。同年は、裏方ながら自身初のチームの日本一に貢献しました。2015年は正式に楽天二軍監督、2016年からは、再びオリックスコーチに復帰しています。

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