構成・文/キビタ キビオ 写真/下田直樹

「タイトル=球界の顔」だ!

──今回はタイトルについて伺いたいと思います。

中畑 オレには縁がなかった話題だな!(笑)

──華やかな場で表彰されているタイトルホルダーの姿を、取れなかった多くの選手たちはどういう思いで見ているのですか? 「来年こそ」という気持ちになるものですか?

中畑 当然、そうだよ。「途中まではいけそうだったのにヘバってしまったな」とか反省点は各選手でたくさんあるだろうけど、来季に向けての糧にしなくてはいけない。やはり、プロ野球選手たるもの、タイトルに価値を感じるような世界を自分のなかに持っておくべきだからな。MVP(最高殊勲選手)をはじめ、ベストナインや各部門のタイトルが「ほしい!」という願望を強く持つことはすごく大事だよ。「タイトル=球界の顔」だしな。

──中畑さんが選手時代にタイトルを獲得できる可能性があったのは、首位打者でしたね。

中畑 2回くらいチャンスがあったかな。故障で少し休んだせいでギリギリまで規定打席に到達せずに“影の首位打者”と言われた年もあったけど、結果的にはおよばなかった。

──それは1987年ですね。最終的には同僚の篠塚(利夫)選手と広島の正田(耕三)選手が.333で同率首位打者になり、中畑さんは.321で6位でした。

中畑 そう、そう。あのときは、シーズン残り5試合を前にセ・リーグの優勝が決まってさ。消化試合の5試合ですべてヒットを1本ずつ打てれば首位打者になれる位置にいたんだよ。にもかかわらず、その5試合で1本もヒット打てなかったの、オレ(苦笑)。

──規定打席に到達するために、シーズン後半は打順も一番に入っていましたよね。

中畑 そういう協力もしてもらっていながら、最後が5試合連続ノーヒットだもんな。オレはきっと欲がないんじゃない? “よく(欲)”言うよってか!?

──いやいや。実は駒澤大時代にも首位打者争いをしたことがあったんですよね?

中畑 そのときも獲れなかった。残り試合を出場しなければ、そのまま首位打者になれる位置にいたんだけど、太田(誠)監督から「日米野球の日本代表に選ばれるのと、首位打者になるのとどちらがいい?」と、聞かれたんだ。

──どういうことですか?

中畑 そのシーズンの後に行われる日米大学野球選手権があって、「大学日本代表に選ばれるためには最後までリーグ戦に出場した方がいい。だが、もし首位打者に確実になりたいのなら、残りの試合を出場しなければとれるぞ」という意味だったんだ。それに対して、オレは「両方ほしいです!」と返事をしたよ。

──つまり、最後まで出場してヒットを打ち続け、首位打者を獲得して日米野球に出る?

中畑 そうそう。そういう意気込みで強行出場して、結果的に日本代表には選ばれたけれど首位打者は逃した。オレ、過去に新聞などを通じてずっと主張しているんだけど、戦わずして四球合戦みたいになって首位打者が決まるのは嫌なんだ。だから、試合に出つくしたうえでタイトルを獲り損ねてしまうんだよな。そういった経緯があるだけに、醜いタイトル争いに対しては、声を大にして批判することが許される人間なんだよ。ハッハッハ!

打率3割はバットマンの勲章ゆえ狙わせてほしい

──しかし、1983年に打率3割がかかった状況でシーズン最終戦を迎えたときには、3割に到達したところでベンチに下がりましたよね?

中畑 ただ、オレの場合、状況が違うんだよ。どういうことかというと、「出場しなけれれば3割を守れる」ではなくて、「出場しなければ3割に到達できない」だったんだ。この最終戦の試合前の時点で、4打数にしても3打数にしても1安打では3割には届かないことがわかっていて、2安打しないとチャンスがなかった。その状況で第1打席、第2打席ともヒットを打って早々に到達したから、交代したわけよ。

──なるほど!

中畑 打率3割については、チームの優勝や順位に直接関係がないのであれば、ギリギリのところで交代するのは許してほしい。その点については、自分が監督のときにも気を使っていたよ。ラミちゃん(アレックス・ラミレス現DeNA監督)のときもそうだったしさ。筒香(嘉智)のときもだよ。

──確かに、2012年のラミレス選手、2014年の筒香選手ともジャスト.300でシーズンを終えましたね。

中畑 彼らに直接「どうだ?」と聞いてね。本人がそれで問題ないということであれば、3割を維持した状態のところで交代させたよ。

──そのくらい、打率.300と.299では……。

中畑 ぜんっぜん、違う! バットマンの勲章という意味では、3割という数字に関しては、維持できるのであれば残したいし、残してあげたい。そういう気持ちが強いよ。

──確かに打率3割というのは、常連になる選手も限られていますよね。そのくらい、難しいことということですね。

中畑 オレがまだ3割を一度も残せなかった頃、当時ヘッドコーチだった牧野(茂)さんが、「清、お前は絶対に3割打てる。しかし、シーズン中にずっとそのことばかり考えているとプレッシャーがかかってしまう。だから、シーズン前半にあと1分~2分くらい上がるように頑張ってみろ」とアドバイスしてくれたんだよ。というのも、オレは毎年シーズン後半に強くて.320~.330くらい打っていたけれど、前半は.260~.270程度のことが多かったんだ。それを見越して何気なくくれたアドバイスだったんだけれども、オレにとっては牧野さんの言葉が強く印象に残ってね。「あ、そうか。そんな簡単なことなんだな」と気づかせてくれた。お陰でその年はリラックスしてプレーすることができて、見事に初の3割を達成したよ。1981年に.322だったときだな。

──牧野さん、さすがですね。考えてみれば、3割と2割9分台後半のヒット数の差って、本当に1本か2本くらいしか違わないですよね。

中畑 そう、そう! 内野安打とかな。あと、四球をしっかり選んで着実に積み重ねていくというのも、年間を通すと実はすごく大きい。それは3割を打つようになってから、初めてわかったよ。

──試合の勝敗が見えたあとの4打席目、5打席目に1本打っておくことも重要ですよね。

中畑 もちろん、そうだな。結局、1日1日、最後まであきらめないというところにつながっていくのよ。

──3割を打つことばかり考えるよりも、試合に臨む日頃の姿勢が大事なんですね。

中畑 それが身にしみてわかっているだけに、梶谷(隆幸)がときどき淡白な姿勢を見せると、「勿体ね~なあ」と思ってしまうわけ! だって、アイツはシーズンを通して3割打てるバッターなんだから。足はあるし。

──潜在能力的にはトリプルスリーも行ける選手ですよね。ただ、逆に桑原(将志)のような最後まで全力を振り絞る泥臭い選手の方が……。

中畑 伸びてきたなー! 今シーズンは自分の立ち位置をしっかり作って、試合に出られる喜びを感じて目一杯プレーしていた。オレの若いときを彷彿とさせるものがあったよ。打っているときも守っているときも食らいついていく姿を見て、ものすごく嬉しかった。今年1年間、「いい選手になってきたな!」と喜ぶことが多かったよ。

ゴールデングラブ賞は「打って、走って、守れる」選手としての勲章

©共同通信

──タイトルがらみで、他に思い出に残っていることはなにかありますか?

中畑 タイトルというか成績に関する話になってしまうけれど、オレはホームランバッターではないと自覚はしていたが、それでも一度でいいからシーズン30本は打ちたいという気持ちがあったんだ。それを30歳のときに達成したのはいい思い出になったな。

──1984年ですね。打率.294、31本塁打、83打点という好成績だったシーズンです。

中畑 自分のなかで「3割、30本、90打点」を理想の数字として目指していて、それに一番近い数字を残せたのが三十路になった区切りの年だったから、強く印象に残っているよ。

──それ以上にもっと打率が高かったシーズンもありましたが、それよりいい年でしたか?

中畑 全体的にいい数字じゃない? しかも、この年の打順は7番からスタートして途中から4番を取り返したというのもあったからな。

──原(辰徳)選手が絶不調になって、中畑さんが再び返り咲いたんですよね。4番というのは、やはりいいものですか?

中畑 いや、打順そのものには深いこだわりはないんだけど、当時の巨人の4番というと、球界を代表する4番という気持ちになるだろう? 自分がここ一番で打てなかったら責任が重くのしかかるけれど、打てたらその何倍も喜びが多い。だから、やりがいがあったよ。

──あと、NPBではなくスポンサー(三井グループ)による表彰ですが、中畑さんは守備の優れた選手に贈られるゴールデングラブ賞を一塁手として1982年から1988年まで7年連続で受賞しました。どちらかというと“打つ人”のイメージなので少し意外です。

中畑 オレ、うまかったんだぞ! そりゃあ、最初はお粗末だったかもしれないけどさ。なにしろ故障から復帰してきたら、突然、「ファーストに行け!」って言われて、一度も練習せずに生まれて初めて守ったんだから。でも、練習して徐々に慣れていったよ。広岡(達朗)さんにも褒められたんだから。

──そうなんですか!? 辛口で有名なOBですから、それは凄いですね。中畑さんは元々サードだったのでアクティブに動くタイプでしたが、一二塁間のゴロやバントの処理で、ベースを離れて捕りにいくか、ベースカバーを優先するかの判断は迷いませんでしたか?

中畑 基本的には出ていいんだよ。ただし、戻れればな。とはいえ、ピッチャーもベースカバーに入る連携プレーの練習をしっかりしているから、むしろ躊躇しちゃダメよ。ファーストが出ることで個々の守備範囲が拡がるし、ベースカバーの大切さとかも自然と浸透する。内野全体が一球一球、緊張感を持ってフットワークを使うようになるためにも、ファーストは動いていいんだ。それに、打って、走って、そして守ってこそ「プロ」だよ。

──その意味で、ゴールデングラブ賞を7年連続で受賞したというのは勲章ですね?

中畑 もちろんそうさ。おかげで守備に対する意欲を強く持てるようになったな。決して得意ではなかったけれど、どんどん好きになっていくことができた。それはオレのプロ野球人生においても、長く現役を続けるうえでとても大事なことだったと思うよ。

(プロフィール)
中畑清
1954年、福島県生まれ。駒澤大学を経て1975年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。「絶好調!」をトレードマークとするムードメーカーとして活躍し、安定した打率と勝負強い打撃を誇る三塁手、一塁手として長年主軸を務めた。引退後は解説者、コーチを務め、2012年には横浜DeNAベイスターズの監督に就任。低迷するチームの底上げを図り、2015年前半終了時にはセ・リーグ首位に立つなど奮戦。今季から解説者に復帰した。

キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。


キビタ キビオ