構成・文/キビタ キビオ 写真/下田直樹
長嶋茂雄代表監督の病によってチームはより結束した

──中畑さんが国際試合を語るうえで現在もベースになっているのが、2004年のアテネ五輪で指揮を執ったときの経験だと思います。
中畑 そうだね。2020年の東京開催でまた復活することになるけれど、オリンピックは他競技も含め国全体をあげての大会だから現在のWBCとはまた違う雰囲気がある。野球界としても、アマ・プロ全体から応援してもらっていたという実感があったよ。
──当時の日本代表チームは、史上初のオールプロで挑みました。2000年のシドニー大会からプロが参加しましたが、そのときはプロ・アマ混成チームで銅メダル。金メダル獲得ため、いよいよ本格的にプロでいこうという流れでしたね。
中畑 ただ、あのときは「1球団2名ずつまで」という制約があったからね。現在の侍ジャパンのようなメジャーリーグの選手以外は最高に近い選抜ができる状況ではなかったんだ。
──当初は、長嶋茂雄さんが代表監督に就任。2003年秋に札幌ドームで開催されたアジア地区予選を兼ねたアジア野球選手権では、中畑さんはヘッドコーチとして補佐役につきました。ところが、アテネでの本戦を前にした2004年3月に、長嶋さんが脳梗塞を患ってしまいます。大会が開幕する8月の直前まで長嶋さんの回復を待ちましたが、残念ながら医師の判断で現地入りは見送られ、監督代行として準備してきた中畑さんが正式な代表監督となり、大会に挑むことになりました。改めて伺いますが、あのときのチームの雰囲気というのはどうだったんですか?
中畑 結束した。ひとつになったよ。「絶対に金メダルを獲って、長嶋さんに見せよう! そうすれば、長嶋さんの病気もきっと治る」という、その一点の目標になったから。
──むしろ、まとまったんですね。
中畑 ただ、いま思うと、オレも含めてだけど、選手、スタッフ全員の気持ちがのめり込みすぎたというのはあったな。だから、予選リーグで最初にオーストラリアに負けたときにガクーっと落ち込んじゃってさ。成績的にも状態的にも、1敗くらいなんてことないことだったというのに沈んだ雰囲気になってしまったんだ。
──わたしは当時、日本でTVの前で応援していましが、画面を通してもチーム全体がすごく硬い雰囲気だなと感じました。
中畑 そう見えても不思議ではないよな。でも、あの入れ込み具合については、オレは悪いことではなかったと思う。プロの連中が、それ以前にひたむきにボールを追いかけていた頃のような“野球バカ”になってどっぷりつかっていた空気というのは、代表チームとして考えたときにはむしろあっていい。あのときは、本当にものすごくいい雰囲気だったのよ。いま考えても最高だったと思う。
選手それぞれが助け合い、緊張感みなぎる雰囲気だった

──アテネで硬い雰囲気に見えたのは、一瞬たりとも気を抜かないようとする真剣な姿勢の表れだったんですね。
中畑 毎試合プレッシャーでしびれていたけどさ。そういう空気のなかにいられるというのは、選ばれし野球人たちだけが体験できること。あの環境が、選手一人ひとりに一層の責任を持たせたと思う。だから、チンタラした行動はまったくなかったし、控えも含めて全員が一球に集中していた。練習のときも手伝うスタッフがほとんどいなかったけれども、人数が少ないなかで選手同士がみんなで助け合ってやっていたよ。
──控えだった相川(亮二/現巨人)がブルペンキャッチャーを務めたり、ときには2010年に亡くなったユーティリティープレイヤーの木村拓也が捕手経験をいかして投球練習を受ける姿も見られました。
中畑 それだけじゃなくて、金子(誠/現日本ハムコーチ)がバッティング練習ではバッティングピッチャーを買って出てくれたりもした。長嶋さんが掲げた「フォア・ザ・フラッグ」という言葉がピッタリ合うチームだったな。オレはあのチームで一緒にやれたことを、いまでも誇りに思っているよ。
──メンバーを振り返っても、リーダーが宮本慎也(当時・ヤクルト)で、後にメジャーリーガーとなる松坂大輔、上原浩治、岩隈久志、和田毅など、錚々たる選手ばかりでした。
中畑 あのとき参加した面々は、いまも現役であったり、各球団の重要なポストや解説として活躍している人間が多いだろう? 本当に素晴らしい人間ばかりだった。オレは監督だったけれど、それは登録上だけのこと。「監督代行とも言えない」と揶揄されていたくらいだったからな。それは、オレ自身も自覚していたよ。
──当時のTV中継を見た限り、中畑さんも指揮を執っていたときの表情がとても硬かったという印象が強く残っています。それまでに現役時代やコーチとしてベンチにいたときはムードメーカーとして、喜怒哀楽を表情に出していたのに、アテネのときは帽子のつばの影で目元が隠れてしまい、口を真一文字に結んで表情を押し殺しているようでした。
中畑 あれは日差しの関係で、ダッグアウトに強力な直射日光が入ってまぶしくてな。
── そのことは、あとになって雑誌の記事で知りました。でも、リアルタイムではわからなかったので、正直に言ってしまうと「らしくない」姿に映りました。
中畑 確かにオレらしくなかった。クソ真面目でさ。でも、ジョークを言えるような雰囲気ではなかったんだ。ちょっとでも言おうものなら、選手から「真剣にやってください!」って、逆に怒られるんじゃないか? と思ったほどさ。みんな本当に真剣だったよ。
オーストラリア代表の司令塔だったディンゴにやられた

──実際に負けたのは、予選、準決勝ともオーストラリア戦だけでした。特に準決勝では、のちに日本でプレーすることになる先発のクリス・オクスプリングから、すでに日本で実績を挙げていたジェフ・ウィリアムス(元阪神)につなぐリレーで0対1の惜敗。7回途中から登板したウィリアムスのロングリリーフにしてやられた印象です。
中畑 いや、やられたのは、実はキャッチャーだよ。
──2000年に「ディンゴ」の登録名で中日でプレーした経験のある元メジャーリーガー、デーブ・ニルソンですね。
中畑 そう。あの選手が日本の野球を研究しつくして、オリンピックで絶対に日本に勝つんだという意識で、まさに命がけで大会に挑んできたんだ。メジャーに復帰することよりも、このオリンピックにかけていた。日本で経験したこともフルに生かしてな。オーストラリア代表の実質の監督はアイツだったよ。オレも一度サインを読まれてエンドランを外された。試合後に「もう1試合やれる。何度やっても勝てます」とコメントしたのを知ったときは、悔しくて仕方がなかった。
──対戦前から警戒はしていたんですか?
中畑 いや、むしろオーストラリアは比較的やりやすい相手と見ていたんだ。先乗りスコアラーからも「なにをやっても勝てます」と言われていたしな。もちろん、試合前にミーティングはちゃんとやったよ。だけど、いざ試合になったらピッチャーの球が思っていた以上に速くて、攻撃陣が焦っちゃってさ。正直、オレも焦ったよ。
再びチャンスがあれば長嶋さんを連れていきたい!
──アテネでの経験は、中畑さんにとってもその後の野球人生に影響したと思います。たとえば、高木豊さんとはアテネの日本代表でコーチとして一緒でした。その後、DeNAの監督に就任したときにコーチとして招聘したのは、アテネで築いた関係によるものだったのではないですか?
中畑 そう、そう! あのとき以来、「今度、もしオレが監督になることがあったら手伝えよ」と約束していたんだ。アテネのときは本当に助けてくれたからね。“ジョークも言えないような雰囲気”とさっき言ったけれど、そんななかで毎晩オレの部屋に来て、そのときだけは笑えるような話をして和ませてくれたんだ。
──金メダルさえ獲れていれば、最高だったんですけどね。とにかく「オールプロで金を!」というのが命題だっただけに。
中畑 そうだな。「金メダルをとって当たり前」という雰囲気だっただけに、準決勝で負けたときはみんなショックが大きかった。そして、日本のファンも銅メダルでは納得できなかっただろう。でもさ、オレとしてはやれるべきことはすべてやったうえでの結果だったから、悔いはなかったよ。もちろん、責任は負わなくてはいけないと思ったけどな。
──とはいえ、先日、テレビ場組の『徹子の部屋』に中畑さんが出演した際、番組の最後の方で「あのときは中途半端に終わってしまったので、もし、チャンスがあるなら長嶋さんを総監督とする形で日本代表を指揮してリベンジしたい」と話していました。
中畑 オレ、そんなこと言っちゃってたか?(笑) 言っちゃったのなら仕方ないな。でも、「そういう流れがくれば」という話だよ。
──実現したら、アテネのときとは違う「素の中畑清監督」を見せられそうですね。あのときに得られた貴重な経験に加え、DeNAで4年間監督を務めたアドバンテージもあります。
中畑 うん。仮にチャンスを与えられたら、たまには笑いを入れるような余裕を選手に持たせたいな。そういう空気を作ることの大切さはわかっているから。また、違った雰囲気で挑むようにして、そのときこそ「金」を獲りたいね!
(プロフィール)
中畑清
1954年、福島県生まれ。駒澤大学を経て1975年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。「絶好調!」をトレードマークとするムードメーカーとして活躍し、安定した打率と勝負強い打撃を誇る三塁手、一塁手として長年主軸を務めた。引退後は解説者、コーチを務め、2012年には横浜DeNAベイスターズの監督に就任。低迷するチームの底上げを図り、2015年前半終了時にはセ・リーグ首位に立つなど奮戦。今季から解説者に復帰した。
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。