日本を代表する速球投手に成長した由規

「順調ロードですね?」
取材などでそう問われたら、「はい」と素直に答えることができた。悩むことはあっても、常に止まることなく前に進んでいたから──。
2010年の横浜戦で日本人として初めて161キロを記録。この年、自己最多の12勝を挙げた東京ヤクルトスワローズ・由規の歩んできた野球人生は、確かに順調そのものだった。
宮城県仙台市に生まれ、3人兄弟の真ん中で育った由規が野球をはじめたのは、小学校4年生のとき。野球好きだった父の熱心な勧めと、先にプレーしていた兄もいるから……と、なかば嫌々で仙台東リトルに入団したはずだったが、当時から類まれな野球センスを発揮して、すぐに外野手として試合に出場するようになり、投手も務めるようになった。
そして、中学1年夏のリトルリーグ最後の大会ではキャプテンになり、チームは全国制覇を達成。アジア大会も制して、世界大会で準優勝という栄冠を手にした。中学時代は仙台西部リトルシニアに進み、そこでも全国大会出場を果たしている。
その後、仙台育英高校に進んでからの由規の躍進ぶりは、多くの人が目にしたことだろう。入学時は内野手スタートだったが、速球投手としてメキメキと成長を遂げ、3年生になった2007年夏の全国高等学校野球選手権大会(甲子園)で、当時の歴代最速となる155キロの速球の速球を披露した。
ここまでくれば、プロが放っておくはずがない。この年は大阪桐蔭・中田翔(日本ハム)、成田・唐川侑己(ロッテ)のふたりも異彩を放っており、由規を含めた3人が「高校BIG3」として注目を集めたが、由規はドラフト会議で、巨人、ヤクルト、横浜、中日、そして、地元の楽天の5球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を引き当てたヤクルトへ入団することになった。
さらにプロ入り後も、由伸の成長は留まるところを知らなかった。細かい故障や、プロとして成長するための挫折はあったにせよ、高卒新人のホープとして、順序良く階段を登っていく。1年目の2008年には一軍でプロ初勝利。翌2009年は先発ローテーションの一角に入って5勝(10敗)、3年目の2010年には自身初の2桁勝利となる12勝(9敗)を挙げて、チームの主戦投手に定着した。
しかも、その間、由規がもっとも売りにしているスピードボールも進化し続けた。2010年8月の横浜戦では、それまで日本人では誰も到達したことがなかった161キロを記録。2011年のオールスターではファン投票でセ・リーグの投手部門で1位に選出され、由規はプロ4年目、21歳にして、日本のプロ野球を代表する速球投手の頂点に迫りつつあった。
地獄へ転落するきっかけは2011年9月の肩痛
ところが、その直後から、由規の順風満帆だった野球人生は、一気に“地獄”への下り坂へと転がり出す。きっかけは、9月3日の巨人戦。このときの登板で、由規は7イニングを投げて勝利投手にはなるも、肩の痛みを感じた。
そして、次の登板に向けた調整のときにボールを投げた際、「腕が抜けたような」激痛が走った。やむなく一軍登録を抹消。この年、ヤクルトは7月まで首位を独走するペースだったが、8月に横浜を除く4球団から猛烈な追い上げを食らい、最終的に10月に中日にうっちゃられて2位に終わってしまう。そして、勝負をかけたクライマックスシリーズでも、中日を相手に最終第5戦までもつれながら、1対2で惜敗して日本シリーズ出場を逃した。由規の戦線離脱が、投手陣の編成に大きな影響を与えたのは間違いのないことだった。
リーグ優勝を目前にしながら逃してしまったことに対して、強い責任を感じた由規は、オフの間、肩の治療に専念し、一度は投げられるまでに回復。2012年の春季キャンプでは、前年の離脱を取り返そうと飛ばした。だが、それが災いして、今度は左ひざを故障してしまう。さらに、それでも無理をした結果、右肩痛を再発してしまったのだ。
その結果、2012年は未登板に終わり、翌2013年の春になっても、肩の痛みが引かない。精密検査をした結果、右肩のインナーマッスルである右肩関節唇が損傷していることが判明した。それまで、手術を回避しながらの復帰を目指していた由規だったが、ここでついに手術の決断をした。
4月に内視鏡による右肩のクリーニング手術を受け、指の感覚や手術して固くなった肩の可動域を元に戻す地味なリハビリを繰り返した。まさに、地獄からはい上がるためのゼロからのスタートだった。
右肩内視鏡手術のリハビリを経てファームで復帰を果たすも……
およそ4カ月間におよぶリハビリを経て、2013年8月キャッチボールを再開した由規は、翌2014年の1月には、ブルペンに入ってピッチング練習するまでに回復した。そこから、徐々に実戦で投げられる状態まで調整していき、2014年6月には、ファームの試合で1イニングながら、ついに戸田球場での楽天戦で実戦のマウンドに立つ。そこで、なんと、最速155キロのストレートをマーク。一軍復帰への希望が膨らんだ。
ところが、現実的には、そこからさらに多くの時間が必要とされた。1度登板すると、肩はしばらくの間、回復しない。一軍のローテーションで投げ続けるために、最低でも必要な「1週間に1度のペースで100球程度」を投げるペースが作れなかった。球数を増やしていくと、右肩に負担をかかってしまい、投げては回復せず、様子を見る……の連続だった。
結局、2015年になっても、一軍復帰のメドが立たなかった由規に対して、オフにヤクルト球団が下した決断は、育成選手としての契約。背番号も「11」から「121」に変更され、年俸は800万円ダウンの1500万円(推定)になった。
プロ選手として、まさに崖っぷち。だが、丸4年にわたって一軍の戦力として働けなかった由規は、それを現実として受け止め、前を向いて復帰への調整を続けた。
一軍復帰への兆し! そして、現実へ――

あとがない状況からスタートした由規の2016年。だが、故障してからも励ましてくれた両親や兄弟、復帰を信じて応援してくれたファンのためにも……と、地道に積み重ねてきた努力が、ようやく形として現れるようになる。イースタン・リーグで週一度のペースで先発して、安定して投球数を重ねられるまでに至ったのだ。
そして、球団首脳陣が最終チェックをするために視察に訪れた6月22日のジャイアンツ球場での巨人戦では、140キロ台後半のストレートを記録。晴れてGOサインが降りた由規は、7月5日に念願の支配下選手登録を果たし、背番号「11」に復帰した。
そして、7月9日――。1771日ぶりとなる神宮球場の先発マウンドへ。この日は、イベント期間限定の黄緑色のレプリカユニフォームと、背番号の「11」をしつらえたボードを持った観客で、スタンドは黄緑色一色に染まった。由規は6回途中まで投げ、94球でマウンドを降りて敗戦投手になったが、慎重に再調整をして臨んだ7月24日の2度目の先発で、ついに1786日ぶりの勝利投手に輝いた。
敵地ナゴヤドームでの中日戦だったが、スタンドには復帰登板のときと同様、両親も応援に訪れていた。その期待に応えるように、由規は1球1球、思いを噛みしめるようにバッターに投じた。6回途中、98球を投げ、2点目を失ったところで、あとをリリーフ陣に託し、そのまま逃げ切ってくれて得られた久しぶりの勝利。ヒーローインタビューでは、父が涙を流しながら「由規ー!」と、自ら人目をはばからず大声で絶叫し、この日の好投を讃えてくれた。
由規は、さらに11日後の8月4日に神宮球場の広島戦に登板し、120球を投げて、復帰後2勝目を挙げる。だが、このときはもう、復帰した直後のような感涙の喜びはなかった。
当面は登板翌日に一軍登録を抹消され、十分な間隔を空けて次の登板に備えることになる。毎回、登板のたびに右肩の状態と相談しながらできるだけ早期に登板が可能となるよう調整するために、やらねばならないことはまだたくさんある。もう、泣いてばかりはいられない。昨日よりも今日、今日よりも明日。後ろを振り返らず、常に前を向いて進んでいかねばならないのが“プロ”なのだ。
東京ヤクルトスワローズ・由規、26歳。止まっていた速球王の野球人生は、いま、再びひとりのプロ選手として、確かに前に進みはじめた。
(著者プロフィール)
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。