【日本社会激動の年にメジャーデビューした男】

 「東京の地下鉄で事件があったみたいだけど、あんたたちお父さん都内に通勤したりしてない? ウチに連絡しなくて大丈夫?」

 高校1年の3月、埼玉の片隅で学期末のクラス対抗球技大会という平和なイベントの最中に購買部にパンを買いに行くと、レジのおばちゃんが心配そうに聞いてきた。1995年は社会的にも大きな事件が続いた1年だった。年明けの1月17日には阪神淡路大震災が起き、プロ野球開幕直前の3月20日には地下鉄サリン事件が発生。当時はインターネットや携帯電話もほとんど世間一般には普及しておらず、皆食い入るようにテレビ画面を見つめていた。

 世の中に渦巻く不安と喧噪。そんな時に限って、人は無性にバラエティ番組や水着グラビアやスポーツを見たくなる。なぜなら、おネエちゃんのグラビアページやプロ野球は平穏な日常の象徴だからだ。だからあの年、人々は暗い世相を吹き飛ばすトルネード旋風に夢中になったのかもしれない。

 95年5月2日、プロ野球史的にも重要な意味を持つ出来事があった。当時26歳、元近鉄のエース野茂英雄(ドジャース)がサンフランシスコ・ジャイアンツ戦の先発マウンドに上がり、5回1安打7奪三振の無失点で堂々のメジャーデビューを飾ったのである。過去にマッシー村上というパイオニアはいたが、現在進行形の“日本のエース”が遠くアメリカの強打者たちを三振に斬って取るインパクトは凄まじいものがあった。

 地元ロサンゼルスでフォークボールを武器に「NOMOマニア」と呼ばれる現象を生み、オールスター戦にも先発登板。最終的にシーズン13勝を挙げ、リーグトップの236奪三振を記録し新人王に輝いたトルネード。日本のマスコミも連日トップニュースとして報じ、大宮駅で普通の兄ちゃんが、なぜかドジャースの背番号16Tシャツを着て街を歩くという何だかよく分からないほどのブームを巻き起こしてみせたのである。

【巨人中心の報道を変えてみせた野茂の活躍】

 ある意味、95年(平成7年)はNPBにとってターニングポイントとなる1年だった。シーズン終了後に発売された『ベースボールマガジン 1995年プロ野球総決算号』掲載の「スポーツ新聞6紙一面徹底分析」という名物コーナーを確認してみると興味深いデータが掲載されている。もちろん、まだインターネットが一般に普及していなかった90年代中盤は今より圧倒的に新聞のパワーが強いのは言うまでもない。

 野茂渡米前の94年、主要スポーツ紙年間一面回数で大リーグネタはたったの3回、それが95年は野茂旋風で一気に178回へと大幅アップである。日本の人々はそれほどまでにアメリカで活躍する野茂の記事を求めていた。ちなみに若貴ブームが落ち着き出した大相撲は92年104回から95年13回へとダウン。サッカーはJリーグブームだった前年の94年110回から95年19回へと激減している。

 野球界を見ると、一面回数トップはやはり長嶋巨人で152回。イチローが大活躍した「がんばろうKOBE」のオリックスも104回と健闘。意外なのは、広島7回と最近のビジター三塁側も真っ赤に染めるカープ人気からは想像できないほどの注目度の低さだ。バレンタイン監督のロッテも2位と躍進しながらわずか9回の登場(それでもパ・リーグ3位の一面回数だが…)。

 ちなみに94年は日本一に輝いた巨人がなんと一面登場回数411回のひとり勝ち状態。2位阪神の93回に大差をつけて12球団ぶっちぎりのトップだった。つまり、わずか1年後の95年には「巨人152回、大リーグ178回」とこの大差を逆転されたわけだ。阪神大震災、地下鉄サリン事件と重いニュースが続いた95年、人々は野茂のトルネードに暗い現実を吹き飛ばしてもらったというのは決して言い過ぎではないだろう。

【すべてはあの年の野茂英雄から始まった】

 その後、7球団を渡り歩き、2度のノーヒットノーランを含む123勝を挙げ、日米通算201勝で名球会入り。渡米時は近鉄と揉め任意引退選手として、「裏切り者」とまで批判されながらも我が道を行き、5月2日のメジャーデビュー以降も1か月近く好投しながらも勝ち星に恵まれなかった。今となっては意外だが、初勝利は先発7試合目の6月2日のメッツ戦である。

 そのキャリアも紆余曲折があり90年代後半には移籍を繰り返し成績を落とすが、2001年に名門レッドソックスでノーヒットノーランを達成。220奪三振で自身2度目のタイトルを獲得して見事復活。翌02年に古巣ドシャースに復帰すると、この年から2年連続16勝を記録してみせた。

 寡黙で野武士的なイメージがある野茂だが、社会人野球の新日鉄堺時代には都市対抗の準決勝で対戦した東芝のマスコットガールに一目ぼれ。恋に狂ったトルネードはチラチラと東芝ベンチの片隅に立つ彼女を見ながらのピッチングに終始し、メッタ打ちのKOを食らったという微笑ましいエピソードも残っている(ちなみにのちに二人は結婚することになる)。

 早いもので、衝撃の移籍劇から22年。この男の挑戦がなければ、間違いなくあとに続く日本人選手のメジャー移籍も今のように活発化はしなかったはずだ。そして、同時に海の向こうの夢の大リーグを他人事ではなく、リアルなメジャーリーグとして日本の野球ファンに提示したのも大きな功績と言えるだろう。

 今思えば、すべては1995年の野茂英雄から始まったのである。

(参考資料)
『ベースボールマガジン 1995年プロ野球総決算号』(ベースボール・マガジン社)
『週刊プロ野球 セ・パ誕生60年 1995年』(ベースボール・マガジン社)
『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)

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