【18年前、東北や北海道にとってまだプロ野球が遠かった時代】

 巨人キャンプで久々に宇津木さんのニュースを見た。

 ソフトボール元女子日本代表監督の宇津木妙子氏が、坂本勇人や吉川尚輝にノックを打ったというキャンプ特有のユルネタだが、宇津木監督率いる女子ソフトボールがシドニー五輪で銀メダルに輝いたのは2000年のことだ。K-1のアンディ・フグが亡くなり、井川遥出演の癒し系アデランスCMが話題となり、カラオケでは福山雅治の『桜坂』が歌われまくっていた夏、女子マラソンの高橋尚子が金メダルを獲得してから早18年が経つ。ちなみにヤクルトのドラ1ルーキー村上宗隆はその2000年生まれである。

 思えば遠くに来たもんだ。あの頃のプロ野球界で言えば、まだ楽天は存在せず、福岡ソフトバンクホークスはダイエーホークスで、オリックス・ブルーウェーブにイチローが、西武ライオンズには19歳の松坂大輔がいた。そして、日本ハムファイターズの本拠地は北海道ではなく、東京だった。巨人とのシェアハウス的なシェアドーム。よく考えたら、当時は仙台にも北海道にも球団がなく、関東以北では毎晩のように巨人戦ナイター中継が流れていたわけだ。もちろん巨人遠征試合でもあれば地元ではお祭り騒ぎになったという。懐かしの昭和の話ではなく、平成中盤までそういう状況だったことに驚かされる。

【オバンドー、ウィルソン、片岡……2000年の日本ハム“ビッグバン打線”】

 さて、その東京後期の2000年前後の日本ハムはどんなチーム状況だったのだろうか。98年には名将・上田利治監督のもと原辰徳命名のビッグステーキ打線……ではなく“初期ビッグバン打線”が爆発し一時は2位に9.5差をつけたが、後半戦は16勝35敗2分けと最大23あった貯金を食いつぶし失速。10月7日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では当時43歳の落合博満が現役最後の打席に立った。1対4とリードされた5回表、代打で登場した落合は、最多勝が懸かっていたロッテのエース黒木和宏が投じた3球目のストレートを打って一塁ゴロに倒れる。前人未到の3度の三冠王と数々の記録を積み上げた男は、華々しいセレモニーを行うこともなく、球場を後にする時に出待ちしていた何人かのファンから「お疲れさま」と握手を求められ、現役生活が終わったことを実感したという。

 そんなオレ流落合が去り、翌年には上田監督も退任して迎えた2000年シーズン、大島康徳新監督の日本ハムは開幕から猛打が炸裂する。その中心にいたのはサミー・ソーサに顔がクリソツな通称“ダミー・ソーサ”ことマイカ・フランクリン……ではなくて、身長2メートルの助っ人シャーマン・オバンドーだ。月間打率.343、9本、25打点と4月首位スタートの原動力となり月間江MVPを受賞。この年のオバンドーは107試合の出場ながらも、打率.332、30本、101打点、OPS.1051という申し分のない成績で、もう一人の外国人主砲ナイジェル・ウィルソンとともにビッグバン打線を牽引した。

 ウィルソンはリーグ2位の37本塁打を放ち、加えて片岡篤史も97打点と勝負強さを発揮。下位打線では打てるショート田中幸雄だけでなく、ヤクルト時代は古田敦也の陰に隠れていた野口寿浩が正捕手の座を掴み、打率.298、76打点と“恐怖の8番打者”として定着してみせた。結局、圧倒的な攻撃力を武器に終盤まで優勝争いに絡んだものの、最後は投手の駒不足が響き首位ダイエーに4.5差の3位で終えた。

【バントをしない“超攻撃的2番打者”小笠原道大の衝撃】

 未だに語り継がれる強打を誇った“2000年ビッグバン打線”の象徴と言えば、今度こそ“ダミー・ソーサ”ことマイカ・フランクリン……ではなくて、当時27歳の「2番ファースト」小笠原道大である。135試合にフル出場で打率.329、31本、102打点、OPS.959。182安打はリーグ最多。さりげなくチームトップの24盗塁とあと一歩でトリプルスリーも狙える大活躍だった。もちろん送りバントはなし。って言うか、驚くべきことに小笠原は日本ハム在籍10年間で計4813打席に立ち、なんと犠打数は「0」である。

 人生フルスイングの小笠原は社会人在籍5年目の96年、ようやくドラフト3位で日本ハムから指名されるも、1年目は気管支ぜんそくに苦しみ、2年目は左手人さし指骨折と怪我に泣くが、持ち前のガッツで3年目の99年は捕手から一塁固定されると攻撃的2番として打率.285、25本、83打点とブレイク。翌00年には前述の通りキャリア初の3割30本100打点をクリアをした。のちにサムライと呼ばれる男は3割・30本塁打を9度記録することになるが、00年代NPB最強打者が覚醒したのはこのシーズンだった。

 しかし翌01年、日本ハムは53勝84敗3分で5位ロッテにすら10ゲーム以上の大差をつけられるぶっちぎりの最下位に沈み、02年7月9日のオーナー会議上で「04年札幌移転計画」が正式承認される。いわばチームが不安定な冬の時代でひとり気を吐いたのが、02年は3番に座り打率.340、03年は.360で2年連続の首位打者にも輝いたガッツ小笠原だった。

 東京後期の日本ハムを象徴するビッグバン打線と2番小笠原がいた時代。なお“2000年ビッグバン打線”のシーズン771得点は、同年に203本塁打を記録した巨人“ミレニアム打線”を上回り12球団トップだった。

(参考資料)
『野球人』(落合博満/ベースボールマガジン社)

2000年日本ハムビッグバン打線

打順選手名ポジション年齢打率本塁打打点
井出 竜也29歳.26713本56打点
小笠原道大27歳.32931本102打点
片岡 篤史31歳.29021本97打点
オバンドー30歳.33230本101打点
ウィルソンDH30歳.29437本89打点
島田 一輝31歳.2656本46打点
田中 幸雄33歳.25615本46打点
野口 寿浩29歳.2989本76打点
金子 誠25歳.2313本31打点

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