【ドラフト1位軍団で投手王国を築いた平成初期の巨人】

 今朝、スポーツ報知を見たら、一面はドーンと上原浩治で、開くと三面は「おかえり松坂大輔」だった。90年代を生き抜いた男たちは2018年も投げ続けている。今季の巨人は上原、澤村拓一、スコット・マシソン、アルキメデス・カミネロらが顔を揃える強力ブルペン陣がストロングポイントだが、思えば90年代初頭の球界はまだ先発完投が当たり前の時代だった。

 例えば1990年シーズン(平成2年)はまだ130試合制だが、巨人のチーム完投数はなんと「70」だ。しかも二桁勝利5名、年間を通して計10名の投手しか1軍で投げていない。藤田元司監督のもと88勝42敗で2位広島に22ゲーム差をつけての独走V。もしも自分が当時の2軍投手なら絶望して移籍志願でもかましたくなる層の厚さである。この頃のドラフトで大森剛(慶大)、元木大介(上宮高卒)と立て続けに野手を1位指名できたのも圧倒的な投手力が背景にあった(92年には松井秀喜を引き当てた)。

 当時の巨人ドラフト1位リストを見ると興味深い。80年の原辰徳(東海大)以降、翌年からドラ1で立て続けに高卒投手を指名。81年槙原寛己(大府高)、82年斎藤雅樹(川口高)、83年水野雄仁(池田高)、85年桑田真澄(PL学園)、86年木田優夫(日大明誠高)、87年橋本清(PL学園)とのちに投手王国を築く面々が全員ドラフト1位ということに驚かされる。

【巨人を支えた斎藤、桑田、槙原の最強三本柱】

 そんな彼らがプロの水にも慣れ、それぞれ成長し、選手として20代から30代前半の全盛期が重なったのが80年代後半から90年代中盤にかけてだった。ここで巨人がリーグ優勝した89年、90年、94年の斎藤、桑田、槙原の個人成績を振り返ってみよう。なお89年と94年は日本一に輝いている。

1989年(平成元年)

選手試合数勝敗数防御率投球回完投数
斎藤3020勝7敗1.6224521
桑田3017勝9敗2.6024920
槙原2112勝4敗1.79150.214

1990年(平成2年)

選手試合数勝敗数防御率投球回完投数
斎藤2720勝5敗2.1722419
桑田2314勝7敗2.51186.117
槙原179勝5敗3.96102.1

1994年(平成6年)

選手試合数勝敗数防御率投球回完投数
斎藤3014勝8敗2.53206.111
桑田3014勝11敗2.52207.110
槙原2912勝8敗2.82185

 凄まじい投球回と完投数だが、斎藤はこれ以降誰も達成していない2年連続20勝、沢村賞3度受賞、最多勝5度獲得で野球殿堂入りの“平成の大エース”として君臨。対する桑田は数々のスキャンダルに見舞われながらも、2年目には19歳にして15勝を挙げ、沢村賞を獲得。90年には“中牧事件”でシーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000万円という重い処分を科せられるも復帰即完封勝利という並外れた精神的タフさを発揮して周囲の度肝を抜く。さらにそれぞれプロ入り時は野手転向も検討された打撃センスの持ち主で、90年の斎藤は89打席で打率.243、89年の桑田は98打席で打率.244と9番目の野手としてもチームに貢献した。

 そんな規格外の二人の影に隠れがちだったが、“史上最強の三番手”として存在感を見せたのが槙原寛己だ。2年目の83年には12勝で新人王、87年からは3年連続二桁勝利と活躍。そのポテンシャルはチームNo.1と称されるも、下半身の故障が多く、おまけに極度の近視でブロックサインがネタにされ、さらにオールスター戦でユニフォームを忘れ練習用Tシャツで登場する天然ぶりも話題だったが、94年5月18日の広島戦(福岡ドーム)では完全試合達成。ミスター・パーフェクトはこの年の日本シリーズで宿敵・西武に対し2勝0敗、防御率0.50の堂々たる成績で胴上げ投手に。90年斎藤、94年桑田がシーズンMVP、94年日本シリーズは槙原がシリーズMVP。もちろん中日との94年同率優勝決定戦“10.8”はこの3人の投手リレーで勝利し、史上最強の三本柱はまさにピークを迎えた。

【2001年、長嶋監督勇退とともに三本柱解体……】

 斎藤がダメでも桑田がいる。桑田が打たれてもまだ槙原がいる。ダブルエースよりも強力な球史に残る三本柱体制。ちなみに90年代のセ・リーグのゴールデングラブ賞投手部門は90年斎藤、91年桑田、92年斎藤、93年桑田(中日今中慎二も同時受賞)、94年桑田、95年斎藤、96年斎藤、97年桑田、98年桑田、99年上原とほぼ巨人投手の独壇場だった。

 同世代の投手が長年ひとつのチームで切磋琢磨し続ける。エースのメジャー移籍が当たり前の現代ではそんな成長ストーリーも難しくなってしまった。3人全員通算150勝以上のトリオも、95年に桑田が右肘手術、斎藤は98年の二桁勝利を最後に故障に苦しみ、槙原は90年代後半にチーム事情でクローザーを務めた。そして2001年、勇退する長嶋監督とともに斎藤と槙原も自身の引退セレモニーに臨み、ひとつの時代が終焉する。のちに雑誌『ジャイアンツ80年史』(ベースボール・マガジン社)のインタビューで斎藤は当時のことをこう振り返っている。

「僕らのあとの上原は1人エースみたいなもので、大変だなと思って見てました。僕らは3人でエースの仕事を分担し、ケガや不調のときはカバーできた。チーム内のライバルでありながら、助け合いながら投げた、信頼できる仲間。そういう“三本柱”だったと思います」

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