とにかく読売に負けたのが悔しい
さあ、いよいよ今年もペナントレースが開幕した。その直前には大阪で星野仙一さんのお別れ会があり、金本知憲監督が号泣しながら弔辞を送った。優勝を星野さんに報告し、褒めてもらいたい――アニキのそんな一途な気持ちがじんじん伝わってきて、チームのみんなも、ファンも心がひとつにまとまったような気がした。
オープン戦でまったく打てずボロボロに負け続け、不安いっぱいで迎えた開幕戦だった。ところが、フタを開けてみれば、福留孝介の一発、若手の連打、大山悠輔の2ランなどで菅野智之をKO、メッセンジャー、マテオ、ドリスと継投も決まって快勝!
……しかし、最高の結果に沸き返ったのはここまで。第2戦、第3戦と先制しながらの逆転負けで、せっかくの開幕勝利をカード勝ち越しに繋げられなかった。まあ、そういうこともある。試合内容は決して悲観すべきものではなかった。今シーズン、十分期待できることを確信もした。
だが、とにかく私は悔しいのだ。悔しくて悔しくて大声で泣きわめきたいくらいだった。何で? 読売に負けたのが悔しいのだ。しかも、自前の若手である岡本和真が連日の大活躍。ケガに悩んでいた澤村拓一と、メジャーから戻ってきてポイポイとハイペースで投げ込む上原浩治にピシャリと封じられたのも面白くない。
うまくすれば、彼らがまったく活躍できない試合展開にできそうなところを、まんまとやられてしまったのが悔しい。まったく感情的な問題にすぎない。とにかく、読売に負けるのがイヤでイヤでしかたない。「アンチ巨人」丸出しだ。
ところで「アンチ」に続くのはやっぱり「巨人」だ。私は基本的に読売ジャイアンツのことを「巨人」とは呼ばない。正式名称には含まれない「通称」を、あたかも正式名称のように使っている特別さが気にくわない。ドラフト会議でもなんでも、公式行事では「読売」とか「読売ジャイアンツ」と呼ばれているのに、新聞の順位表でも雑誌の記事でも、当たり前のように「巨人」の表記。実に気に入らない。
しかし「アンチ読売」「アンチジャイアンツ」という言葉はピンと来ない。特別扱いしてなるものかという意味では「読売」「ジャイアンツ」としか呼ばないが、憎むべき対象としては「巨人」でいい。だから言葉としては「アンチ巨人」がしっくり来る。
読売のカラクリに気づき「アンチ巨人」になった
読売の何が気にくわないか、理由を挙げることだってもちろんできる。私くらいの年齢の人なら、この球団がいかに傲慢に振る舞ってきたか、野球界を私利私欲で牛耳ってきたか、よくご存じであろう。
ただ、私が「アンチ巨人」→「阪神ファン」になっていった理由は、そうした事実よりも、とあるカラクリに気づいたからだ。自社が持っているテレビ局で試合中継を全国に流し、「ジャイアンツにあらざれば野球選手にあらず」のような既成事実を作り上げる。それにより、いたいけな子どもたちは、「テレビでやっている巨人戦」に夢中になり、「小さな巨人ファン」が粗製濫造されていく。
これはおかしい、何かが間違っている。現在のジャイアンツ球場にほど近い、東京都稲城市で育ったトラオ少年は、その恐るべき「洗脳」「陰謀」にいち早く気づいたのだった。以来、ひとりHTマークのキャップをかぶり、王貞治の不振を祈り、田淵幸一を、江夏豊を、掛布雅之を応援してきたのだ。
ものの理屈がいくらかわかる今であれば、読売のやり方が資本主義経済の原則に従ったものだということはわかる。「まるで我がもの顔で球界を牛耳った」のは間違いないが、その分、彼らは大して人気のなかったプロ野球にもっとも投資をしてきた。自前の電波を使った「洗脳」も、相応のコストを負担してのこと。悔しいけれど、日本プロ野球の礎を築いてきたのは事実だ。数々の「横紙破り」も、自由競争をとことん追求したと言えなくもない。まあ、やり口は相当汚かったけれど。
さらに言えば、阪神タイガースが「正義」でもなんでもないこともわかっている。むしろ、読売の「腰巾着」みたいな存在だった時期も長かった。球界の発展にどれだけコストを負担してきたかと問われれば、阪神は決して読売を悪し様には言えない。
敵同士、完全に理解しあえる日など決して来ない
さて、時代は大きく変わった。人々は「巨人戦」をまったくありがたく思わなくなった。娯楽が多様化した、汚い読売のやり方が嫌われた、CS放送でひいき球団の中継が視聴可能になった……その理由はいろいろだ。それは、「読売ファン自動生産システム」の終了を意味する。
「伝統と栄光」はあるにしても、選手たちにとって突出した経済的なプレミアムはなくなった。地上波放送という「特殊兵器」が役立たなくなり、さらに新聞・テレビという親会社の本業も昔ほどの利益を生まなくなっている。読売球団は、今や選手獲得の「自由競争」で圧勝できる状態ではない。
読売が特別な球団ではなくなるにつれて、おそらく「アンチ巨人」も存在意義が急激に減少したのではないか。読売に限らず、「アンチ」という考え方そのものが古くさくなってきた。昔は「ビジネスマンたるもの、政治の話と野球の話はするな」と言われたものだ。どのチームのファンであるか、どの政党の支持者であるかはわからない。そんなことで嫌われてしまってはもったいないということだった。でも、今やどこ球団のファンであろうとも、野球好きであれば嬉しく感じ、野球の話で一緒に盛り上がれる。
それでも私は「アンチ」であり続ける。古くさい存在なのは自覚はしている。でも、アンチはなくなってほしくないし、きっとアンチはなくならないと思う。
プロ野球チームを応援する楽しさ。その本質は、勝って嬉しい、負けて悔しいこと。私は今まで「勝っても負けても楽しかった」などというユルい気持ちで野球を見たこともないし、負けた相手に対して「よかったね、おめでとう」なんて言えるほど人間もできていない。
勝負が終わればノーサイドだとしても、戦う以上は敵同士だ。だったら「嫌い」「憎い」という気持ちがあったほうが燃える。まあ、人が優しくなった時代だから、それをあえて表現しないが、腹の中では「絶対にあんなのに負けるなよ」と思っている。私の中では、「アンチ巨人」魂は現役バリバリだ。所詮は、敵同士。100%完全に理解しあえる日など決して来ないのだ。
「アンチ阪神」は我慢ならないが「いてほしい」
メディアによる「洗脳」という意味では、今や読売より阪神のほうが強いかもしれない。それほど、地上波テレビやスポーツ新聞といった「在阪マスコミ」と阪神球団との蜜月ぶりにはものすごいものがある。「ローカル」「WIN-WINの関係」であるにしても。だから、とくに関西には「アンチ阪神」という人がたくさんいると思う。もちろん伝統的な読売ファンの中にも、他球団ファンの中にも、「とにかく阪神が嫌い。阪神だけはけちょんけちょんに叩け」と思っている人も少なからずいるはずだ。
阪神ファンとして、「アンチ阪神」がいるという現実は、実に我慢がならない。そういう人たちは、負けて悔しがる阪神ファンを見ながらニヤニヤするのだろう。実に腹立たしい。でも、それでいい。そんな「アンチ阪神」が存在しているからこそ、勝ったときの快感がデカいのだ。そのほうが世の中ずっと面白い。