“スーパーレジェンド”は江夏豊の9者連続奪三振
オールスターの数ある名勝負のなかでも、もっとも伝説的な偉業として語り継がれているのは、江夏豊(阪神)による「9者連続三振」だろう。投手が1試合に投げられる規定一杯の3イニング、打者9人を全員三振に切ってとる快挙を成し得たのは、45年前の1971年のこと。このときのパ・リーグの打線は、1番・有藤通世(ロッテ)や、長池徳二(阪急)、江藤慎一(ロッテ)、土井正博(近鉄)のクリーンアップなど、“サムライ系の猛者”どもが勢揃いしていたが、江夏はそれをものともしなかった。快速球をビシビシと投げ込んで、1回、2回と三振の山を築いていく。
そして、3イニング目に入り8連続を達成。最後となる9人目として代打で登場した加藤秀司(阪急)の打球がキャッチャーへのファウルフライとなると、江夏は捕手・田淵幸一(阪神)対して「追うな!」と叫び、捕りに向かわせなかった。すぐに仕切りなおして、加藤も空振り三振。試合前に新聞記者との会話で、いままで誰も達成したことがないオールスターの記録は「すべて三振だろう」と聞いて、「よっしゃ、それいこう!」と公言したとおり、前人未到の全員三振を達成した
江川卓はカーブを打たれて8連続奪三振で頓挫
江夏が金字塔を打ち立てたあと、多くの投手が同じように9連続奪三振を目指してオールスターに挑戦した。そのなかで、もっとも近づいたのは1984年の江川卓(巨人)の8者連続三振である。
この年のパ・リーグ打線も、相変わらず強力。世界の盗塁王・福本豊(阪急)をはじめとし、ブーマー(阪急)、落合博満(ロッテ)と、当時、三冠王争いを演じていた強打者が中軸を担い、以降も栗橋茂(近鉄)、石毛宏典(西武)といったクセ者が並んでいたが、この試合2番手で登場した江川は絶好調。シーズン前半、肩の不調でボールが走らなかったのが嘘であったかのようにストレートが伸び、それによって意外に数多く投じたカーブも抜群の効果を発揮。江夏のような快刀乱麻のピッチングとはまた趣の違う、メリハリのきいた投球術を交えて、当初予定されていた2イニングを投げ、すべて三振を奪った。
こうなると、開催地のナゴヤ球場は大歓声が鳴り止まなくなり、セ・リーグベンチも「狙え、狙え!」と江川を後押しして登板は延長される。3イニングス目も先頭の伊東勤(西武)をカーブで空振りの三振に仕留め、代打で出てきた8人目のクルーズ(日本ハム)には、この日最速の148キロのストレートで空振り三振。スタジアムのボルテージは最高潮に達し、最終9人目の大石大二郎(近鉄)も2ストライクと追い込み大記録到達が見えてきた。
しかし、ここで詰めを欠くのが“江川流”!? ボールゾーンへ外して、見逃されたら次の速球で気持よく記録を狙うつもりで投げたカーブがややなか寄りに入ってしまう。そのボールに大石が飛びつくようにバットを投げ出すと打球が前に飛んでしまい、セカンドゴロに。江川は江夏に一歩およばず。シーズン中と同様、首をかしげながら照れ笑いでマウンドをあとにした。
打では掛布雅之が3打席連続本塁打でド肝を抜く!
打撃におけるレジェンドは、1978年の第3戦で掛布雅之(阪神)が達成した3打席連続本塁打だろう。佐伯和司(日本ハム)、佐藤義則(阪急)、山口高志(阪急)と、当時のパ・リーグ代表する速球投手たちが投げ込んだ渾身のボールを、レギュラーに定着してまだ3年目だった掛布は、こととごくライトスタンドへ弾き返した。
この3連発がひとつの転機になり、掛布はこの年、自身初の30本台となる32本塁打を記録。オフに、それまで阪神の人気ナンバーワンだった田淵幸一が西武に電撃移籍すると、翌1979年には48本塁打で初の本塁打王を獲得。長距離砲として、また「ミスタータイガース」として完全に定着し、その後、常連となったオールスターでは、1981年にもサヨナラホームランを含む2打席連続弾を放つなど、華やかな活躍を続けた。
走では松井稼頭央と「SHINJO」こと新庄剛志が魅せた!
投打のガチな対決に目が行きがちのオールスターだが、走塁でファンを魅了した選手もいた。まずは、若き日の松井稼頭央(西武)だ。1997年の初戦に出場した松井は、2打席目の3回にヒットで出塁すると、たちまち二盗、三盗と盗塁を決めていった。
このとき、全セでマスクを被っていたのは、毎年確実に4割を超える盗塁阻止を誇っていた古田敦也(ヤクルト)である。1991年の第1戦で3度盗塁を阻止したこともある達人は、5回に再び松井が出塁すると、お祭りムードを一変。ピッチャーの澤崎俊和(広島)とバッテリーぐるみで松井の盗塁を警戒した。しかし、松井はそれでもスタートを切って、間一髪のタイミングながら二盗に成功。さらに、その興奮の余韻がさめやまぬうちに、またもや三盗を鮮やかに決め、オールスター新記録となる1試合4盗塁を樹立するのであった。
走塁においては、もうひとり球宴を沸かせた男がいる。2004年に出場した登録名「SHINJO」こと新庄剛志(日本ハム)だ。
新庄はこのオールスターの移動で日本ハムの本拠地・札幌を出発するときから、「MVPはオレのもの」と公言していたが、それを現実にするために練っていた秘策は、なんと、ホームスチール。3回裏の全パの攻撃で三塁に到達すると、福原忍(阪神)が打者・小笠原道大(日本ハム)に投球したあと、キャッチャーの矢野輝弘(阪神)が返球する瞬間を狙ってスタート! 福原が慌てて本塁の矢野へ投げ返してクロスプレーになったが、ヘッドスライディングで突入した手が一瞬早くホームに到達して、狙っていたスーパープレーが見事に成功。見ているファンを興奮させるとともに、本人もうつ伏せのまま地面を叩いて大喜びした。
MVPをもっとも多く獲得したのは通算7回の清原和博
交流戦が行われる前のプロ野球では、日本シリーズ以外に各リーグの主力選手同士が対戦する場は、このオールスターしかなかった。そのため、甲子園を沸かせたPL学園のエース・桑田真澄(巨人)と4番打者・清原和博(西武)がプロ入り後、はじめて対戦した1987年のオールスターは、開催地が高校時代の縁の地である甲子園だったこともあり日本中の野球ファンが注目した。結果は、対戦前にお互い約束していた「ストレート勝負」の末、清原が桑田渾身の一投を鮮やかにレフトスタンドへ放り込んで、大舞台での強さを見せつけた。
また、1990年には、この年鮮烈なデビューを果たした新人の野茂英雄(近鉄)と与田剛(中日)が、ともにオールスターに初出場。平和台球場で行われた第2戦では、ふたりが先発する「ルーキー対決」となったが、2回に全パの4番・清原が与田からレフト場外へ豪快な一発を放つと、3回には全セの4番・落合(中日)が野茂のストレートを思い切り引っ張って、レフトへ逆転の2ランホーマー。両リーグの4番打者が、それぞれのプライドと貫禄を見せつける結果となった。
こうした要所の対決で度々名前が登場する清原は、オールスターでのMVP獲得回数は通算7回を誇り、現在も史上最多の受賞回数として球史に残っている。今後、この記録を突破する者が現れるだろうか。大谷翔平(日本ハム)というスーパースターを筆頭に、現役選手たちの奮闘に期待しよう。
※所属球団はすべて当時のもの