【身体と私】駅で上手に眠るには(前編)

 私のSTBデビューは冊子入手の2年後。すでに国鉄がJRとなっていた1989(平成元)年だった。高校1年の夏休みを利用して、自転車で北海道を1周する計画を立てたのだ。

 輪行袋に収めたロードバイクを担ぎ神奈川の自宅を出発。〈青春18きっぷ〉で鈍行を乗り継いで、青森を目指す。それから青函フェリーで函館港に降り立ち、そこから反時計回りに北海道をぐるりと走る2400kmの旅を始めた(冒頭写真)。

 初めてSTBをした駅は、今でも覚えている。函館本線の大岸駅だ。たしか、作りつけの長いすに、老人会寄贈と記された座布団がいくつか敷いてあった。その上に持参したロール銀マットと、1980円の安物ホームセンター寝袋。そこにTシャツにウインドブレーカー程度の薄着で潜り込んだ。寒くはなかった。

 無人駅の前には自販機と電話ボックス。構内踏切の警報音と、深夜も轟音をあげて貨物列車が通過するたび目を覚ました。夜闇にビクついてあまり眠れなかったが、夜明けが来ると、始発時間に急かされることなく、すぐに出発した。寝不足でぼんやりしていたが、空気がツンと冷えた朝の北海道を走り出すとテンションが上がった。

 このコラムを書くにあたり編集担当者から依頼された内容は〈どこでも寝られる身体の作り方〉なのだが、実際のところ、どこでも快適に眠るために必要なのは〈特別な身体〉というより、身体を預ける〈環境設定〉ではないかと思っている。

 北海道で旅を続けるうちに、自分なりの考えが固まっていった。当初は、駅のイスの種類で眠りの質が左右されたが、ある日を境にこの問題は解決された。イスの上で眠ろうとするのではなく、最初から地べたに銀マットを敷いて寝ることにしたのだ。いかにも単純だが、〈きれいな場所〉ではなく、〈平らな地面〉こそが、安眠を約束してくれる。

 それから、約30年のうちにマットも進化した。ウレタン製の銀マットから、より断熱性が高くて軽い自己膨張式マットが主流となった。さらに最近は、布にフレームでテンションをかけ、その上で眠る組み立て式ベッド、コットも小さく軽くなった。最近はコットの快適さを知ってしまい、愛用している。

早すぎたメルマガ旅

 北海道を皮切りに始まった駅寝人生では、ベンチや階段からの落下や、ずっと椅子に座り何やらつぶやき続けるやばい人との遭遇など、トラブルは数知れない。寝床にしようと目星をつけていた駅に体力ギリギリでたどりついたものの、床一面が真っ黒。よく見たら全部がハエの死骸だったこともある。しかし、結局は慣れだ。最終的には、眠ろうとすれば眠れる。寝るための時間さえ確保できれば眠れる、と言えばいいのか。

 2000年に旅した稚内発・沖縄行の自転車日本縦断では、快眠できた日が数えるほどしかなかった。現在こそSNSでリアルタイムに情報を発信しながら動く旅は珍しくないが、インターネット黎明期の2000年にやっている者はいなかった(と思う)。
 
 勤めていた会社を辞め、アウトドア系のライターとして自立することを目指していた私は、日本縦断中に毎日メールマガジンを発行し、その過程で1000人の読者と会って「寄せ書きしてもらう」ことを目標に掲げた。
 
 一部界隈では話題を呼び、複数の地方紙にインタビュー記事なども出たが、それほど拡散できず、寄せ書きはわずか200人、沖縄本島最南端の喜屋武岬で旅は終わった。

 この旅ではSTBもしたし、宿が探せないまま夜に力尽き、倒れ込むように橋の下で爆睡した翌朝、明るくなると周囲がホームレスさんの寝床だらけだったこともあったが、なにより日々の眠りを妨げたのは、自分で課したメルマガの執筆とアップロード作業だった。

公衆電話を探す

 毎日100km以上も自転車を漕いで疲れているのに、原稿を書いてそれをアップする作業は難儀であった。当時は、そこらに無料Wi-fiなど一切ない。ガラケーからつなぐと料金がべらぼうに高いので、コネクタが挿せるグレーの公衆電話を探し「ピー、ギャラギャラ」という音で始まるダイヤルアップでインターネットに接続していたのだ。写真のアップはとくに時間を要し、テレホンカードの度数がどんどん減った。

 そして、そんなことをしているうち眠る時間もどんどん減っていってしまうのだ。当たり前だが、どうやって寝るかだけでなく、単純にどれだけ寝ていられるか、時間をしっかり確保することも、快眠の秘訣だろう。

 そういえば、当時は電源探しも大変だった。ようやく普及しつつあったノートパソコンを持参していたが、バッテリーの持ちはわずか数時間。ファストフード店にコンセントもなかった。

秘密の枕

 やたらと自転車旅をするわりに、私はフィジカルにまったく無頓着であった。

 準備運動もクールダウンもせず、ひたすらペダルを漕ぎ続け、膝が痛くなると、旅を小休止していた。ストレッチ方法や、峠での負担の少ない漕ぎ方、自転車整備など、さまざまなことを教えてくれたのは、途中で行き合ったたくさんの旅人たちだ。

 日帰り温泉の風呂上がりに、大腿四頭筋とハムストリングスを伸ばすストレッチをする。これだけで、翌日は、脚をよく使えるようになる実感があった。峠越えのときには「足首を意識しろ」。ペダリングで踏み下ろすとき、つま先が水平あるいは上に向きがちだが、下向きをキープしたほうが楽に漕げる、というもの。これは、皆さんにもぜひ坂道で試してもらいたい。

 眠りに関しての金言もあった。「眠れないときは、自分の汚れ物を枕にしろ」という教えだ。汗だくの洗濯物を? と抵抗感があるかもしれないが、効果は覿面である。人間もまた動物。自分の匂いで安心するのは、犬と同じだ。

 紆余曲折を経て、私はライターとして糊口をしのげるようになった。念願だったアウトドア系専業ではなく、政治や経済、医療の取材まで手を広げて、どうにか自分の“城”も持った。もう毎夜、寝床を探す憂いはない。夕方になると赤ちゃんが泣く〈黄昏泣き〉という現象があるが、寝床の決まっていない旅人は夕方、同じように、なんとなく不安な気持ちが込み上げてくるものだ。寝場所が決まっている人間の、なんと心強いことか。にもかかわらず、安心が続くと、やや物足りなく感じるのは旅人のサガか。

手漕ぎの罠

 30代で出会った折り畳みカヤック(ファルトボート)の世界は、陸の上を走るのとはまた違う身体の使い方を教えてくれた。仲間とともに四万十川の河原でキャンプしながら、上流から河口までツーリングしたこともある。けれど、カヌーを始めたばかりの頃には、その道のセンパイから時折「そんな“手漕ぎ”じゃ、すぐ疲れちまうよ」と苦笑された。

 カヤックは、両手で握ったパドルで水を掻いて進むが、じつは腕で漕ぐのではなく、腰を入れて全身で漕ぐのだ。清流・四万十も海に近づくにつれ大河となり、海からの向かい風が強くなる。

 小さなカヤックは漕いでも漕いでも進まず、下手すると後ろに吹き戻されるほどだが、そんなときもやたら強くパドルを動かそうとするのではなく、踏ん張った足先と膝、そして腰、腹筋、それからようやく肩、腕とシームレスに力を伝えることで、どうにか前へ進むのだ。

ジム通いが日課なのに

 コロナ禍もあって、最後の駅泊からもずいぶん月日が経ってしまった。泥臭い旅を好む旅人は減り、コンプライアンスとやらも厳しくなった。おおらかな時代の遺物として、グランピングなど〈快適なアウトドア〉が流行る一方、STBは消え去っていくのみなのだろうか。

 私自身の身体も、年とともに変化した。諸先輩方から聞いていた通り、野宿でもないのに、睡眠に関する不調が訪れたのだ。50代を目前にして、なにより感じるのは早朝覚醒というやつである。いくら夜更かししても寝付きが悪く、眠たいのに朝6時には目が覚めてしまう。もちろん床から起き上がるときは腰が痛く、1日の始まりは「イテテ」からだ。

 その反面、30代の後半からこの十年以上、スポーツクラブ通いにもハマっている。だいたいいつも、仕事道具とトレーニング用具一式を巨大なバックパックに詰めて持ち歩いている。インストラクターがしっかりストレッチまで指導してくれるので、過去一番の筋肉体形になった、と思う。

 にもかかわらず、最近は筋トレ中に手首を捻ったり、同じく腰をやってしまったり、オートバイ乗車中に貰い事故をしたりと、それなりにシリアスな怪我が続いている。“ナイスバディ”にはなったが、はたして、自分は本当に〈健康〉になっているのだろうか、と手のひらを見つめてしまう瞬間もある。


土屋秀太郎

土屋秀太郎(つちや・しゅうたろう)STB全国友の会・6代目会長。フリーライター。1973年東京生まれ。旅と新しいものが好き。現在は電動キックボードを手に入れ、ソーラーパネルで充電しながら移動費無料の旅ができないかと思案中。好きなクラフトビールは「COEDO毬花」と「SORACHI1984」。