踊ることは生きること 呼吸するくらい自然なこと
松山バレエ団の団長になっても、森下さんは舞踊歴を更新し続けている。一日に原則5、6時間をレッスンに当てる。オフ日もストレッチは欠かさない。森下さんがよく口にする言葉がある。「稽古は1日休むと自分に分かる。2日休むと仲間に分かる。3日休むとお客様に分かる」。
日本バレエ界をリードし、毎日欠かさず稽古を続けている人の言葉は重い。そして、バレエは、技術を磨くことだけではないという。
「バレエは技術も大切ですが、それだけでは心深い感動をお届けすることはできません。多くの方に夢や希望をお届けする、という強い思いをもって毎日コツコツと稽古を続け、魂を磨いていくことが大切だと思っています。バレエは、すぐにできるようにはなりません。長い時間がかかるもので、私自身は10年、20年の長いスパンで考えて稽古を繰り返しています。今、舞踊歴70年を越えてなお、新しい発見があり、新しい音が聞こえてくる。バレエには終わりがない、そこがバレエの素晴らしさです。
次の日もきちんとレッスンできるように、その日のうちに身体のケアとマッサージは怠らず、「発熱すると筋肉が落ちてしまうから」と風邪の引き始めには、すぐ医師の処方を受ける。ケガにも細心の注意を払っており、特に雨の日や雪の日などの足元が滑りやすい日の歩行にはとても気を遣っているという。
1日2食、特別な“何か”は摂らない
森下さんの食事スタイルは、朝と夕の1日2食。朝はハムエッグとトースト1枚、コーヒーが定番で、季節の果物を加えることが多いそう。トーストにはバターやいちごジャムをつけて、特別なサプリメントや栄養ドリンクを摂ることはない。
「夜は昔と変わらず、しっかりといただいています。肉料理もビールやシャンパンなどのお酒も好きです。お肉と炭水化物、野菜をバランスよく食べるようにしていますが、公演の日は、夜の本番が始まるまでサンドイッチ一切れとチョコレートくらい。その方が身体は動くのです」
公演日は食べていないに等しい量だが、日頃は食に対してストイックではなく「量」と「栄養」のバランスに気をつけている程度だそう。多くの人は歳を重ねるにつれて、脂っこい料理を控えがちになるが、森下さんは肉料理もアルコールも好きという。
では「しっかり食べている」という夕食はどのようなメニューなのか。とある1日の献立を聞いてみた。
「例えばメインが天ぷらで、それにカイワレとオクラ、もやしのお浸し、肉じゃが、ご飯。そうそう、昨日はハンバーグにグリーンピースなどを付け合わせて、カボチャのいとこ煮と鯵の南蛮漬け、それにパスタでした」
多品目を少しづつ摂ることを心がけているそうで、最近は「ヘルパーさんにお願いして美味しく作ってもらう」ことが多くなったという。また別の日には、団員たちと一緒にお鍋を囲んだり、カレーを食べたり。
「松山バレエ団のバレエは、みんなで演出の意図を共有し、思いをひとつにして舞台で表現することを大切にしています。その一環としてみんなで食事をすることもあります。若い人たちも自分の意見を言える、和気あいあいとしたとてもアットホームなひと時です」
松山バレエ団の心深い感動の舞台は、あたたかい食卓にも支えられている。
クリスマスの夜の物語「くるみ割り人形」
松山バレエ団が掲げる理念は創立者で、清水哲太郎さんの父である清水正夫さんが残した「芸術は人々の幸せのためにある」という言葉。1969年、清水哲太郎と最初に踊った時、清水さんは問いかけた。「何のために踊るの?」その問いに森下さんはすぐに「好きだから」と答えることはできなかった。
「ヴァルナ国際バレエコンクールで金賞を受賞してから50年。今はその頃より日本でもずっとバレエが盛んになり、海外で活躍する日本人も格段に増えました。でも、バレエで一番大切なことは、多くの方に幸せを感じていただくこと、あたたかい愛や夢、希望をお届けして、平和、命いつくしむ時代への力になれたら。
バレエは敷居の高いものと思われていますが、そんなことはありません。バレエがもっと身近になって、日常生活を送る皆さんの心を洗うような深い感動をお届けし、人生をより豊かに変える力になれたらと願わずにはいられません。バレエを通じて温かな愛、人の心の美しさを表現する。そこから、少しでもこの先の平和や美しい未来を拓いていくことができたらと思います」
この1年を締めくくる松山バレエ団恒例のクリスマス公演『くるみ割り人形』が今年も開催される。醜い人形を一心に愛するクララの心の美しさが輝くこの舞台は、19世紀ヨーロッパの戦乱の時代を舞台に、人々が共に集い、生きることのありがたさを強く描いた作品でもある。12月10日に東京文化会館、22日に神奈川県民ホールで行う全幕公演の主役のクララ役は、もちろん森下さん。今なお一層厳しい世界情勢の中で、広島生まれの森下さんが舞台に込める思い、バレエへの深い愛と情熱に触れた時、心は大きく揺さぶられるはずだ。
ただこの素晴らしいバレエを続けたい。バレエをやめたいと一度も思わず、一心に稽古を続けてきた70年超という時間の重み。バレエに全身全霊を捧げている一途なバレエへの愛、感動と共に突きつけられるものは大きい。
森下洋子
1948年、広島県生まれ。3歳でバレエを始め、1971年に松山バレエ団に入団。1974年第12回ヴァルナ国際コンクールに出場し、金賞を受賞。以後、世界各国に活躍の場を広げ、2001年に舞踊歴50年を迎え、松山バレエ団団長に就任。1997年、女性最年少の文化功労者として顕彰される。2002年、芸術院会員に就任。バレエ歴70年を超え、第一線で活躍中。近著に『平和と美の使者として 森下洋子自伝』(中央公論新社)がある。2023年12月2日より松山バレエ団75周年記念公演『くるみ割り人形』開催。詳細は下記HPから。
松山バレエ団 創立75周年記念公演「くるみ割り人形」
クリスマスの夜。シュタールバウム家でのクリスマスパーティにドロッセルマイヤーおじさんが子供たちの前で取り出した、世にもみにくいくるみ割り人形。子供たちは顔をしかめてしまいますが、主人公クララは一目でこのくるみ割り人形を好きになります。くるみ割人形を胸に抱いて、客間のソファーで眠りについたクララに、不気味なねずみの大群が襲いかかります。すると、ちっぽけだったくるみ割り人形が、みるみる大きくなって、勇敢に立ち向かいます。危ないところでクララの助けを借り、ねずみの王様を倒します。すると、あんなに醜かったくるみ割り人形が、またたく間に、美しく立派な王子様の姿に戻ります。そう、王子は呪いの魔法にかけられて、くるみ割り人形の醜い姿に変えられてしまっていたのです。クララは王子にみちびかれ、雪の国、水の国、そして王子の治めるお菓子の国へと旅立ちます。いく先々で大歓迎を受ける二人。でも、夢の中のクララに残された時間は、あと、わずかです・・。
松山バレエ団