文=手嶋真彦

こんな授業なら、出席しようがしまいが同じじゃないのか

 学生時分の教師を、読者の皆さんは何人覚えているだろうか。そのうち何人が、大学時代の先生だろう?

「僕はたったの1人ですよ。それも受講したゼミの先生が、珍しい名字だったから。それで1人覚えているだけです」

 法政大学アメリカンフットボール部の監督を昨年9月から務め、自身もそのOBの安田秀一は話をこう繋ぐ。

「部員たちには、授業にちゃんと出席させています。大学生なんですから、学業優先で。でも、参考までにと自分で聴講してみて、思うんです。こんな授業なら、出席しようがしまいが同じじゃないのかと」

 なにも法政大学だけが、特殊なわけではあるまい。47歳の安田の記憶に残っている講義が皆無なのも、卒業からおよそ四半世紀という経年のせいではないはずだ。

 日本版NCAAとは何か――。時事用語に詳しく、NCAAが「米国大学体育協会」の略語だとご存知のあなたにも、続きを是非お読みいただきたい。理由はこうだ。日本版NCAAの好影響で、大学の授業が面白くなるかもしれないから。忘れられない先生が何人もいて、掛け替えのない恩師に出会える学生が増えるかもしれないから。安田が見据えているのは、せっかく入った大学なのだから、そこでもっと刺激を受け、もっと感化され、もっと人格を磨ける、そんな未来だろう。

 ちなみに日本版のモデルと位置付けられるアメリカのNCAAとは、どんな団体なのだろうか。ある新聞記事を補足しながらまとめると、次のようになる。「100年以上の歴史を持ち、全米1200ほどの大学を競技横断的に束ね、カレッジスポーツ全般を取り仕切っている組織。そもそもは学生の安全管理を統括する団体として組成。現在は巨額のTV放映権料や入場料などの収入を、人気の高い男子バスケットボールから得て、その収益を各大学に分配している団体」。

 収入の多い大学は、年間およそ200億円をスポーツ活動だけで稼ぎ出す。日本の場合は各大学スポーツの収入のほとんどが学生からの部費であり、収支はマイナスと捉えるべきだろう。

 眠れるそのポテンシャルに目を付けたのが、安倍政権だ。スポーツ庁が日本版NCAAの創設を具体的に検討中なのは、大学スポーツの振興を国の経済成長に繋げたい目論見があるからにほかならない。しかし、「大学スポーツの産業化とそれに伴う収益化」は、多面的な価値を持ち得る日本版NCAAのひとつの側面だ。法政大学アメリカンフットボール部監督の安田は別の視点で、大学自体を改革していく好機到来と捉えている。

幸福を増やし、不幸を減らす、世界の最適化

 現状の大きな問題は、運動部への著しい過小評価だと安田は言う。なにしろ学校法人に組み込まれておらず、あくまで任意団体による課外活動という扱いなのだ。それゆえ練習中に深刻な事故が起きようと、大学側は与り知らないで押し切れる。放漫な財務管理が長年に及んでも分からない。安田はスポーツ関連事業を展開する株式会社ドームの経営者であり、常日頃から多忙を極める。それでもアメリカンフットボール部の監督を無償で引き受けたのは、前任者の不適切な金銭管理が発覚したからだ。OBとして、これは看過できないと。

 そもそも不可解でしかないと言う。大学でも人間教育に最適なひとつがスポーツであり、運動部であるはずなのに、なぜいつまでも任意団体のままなのか。今でも最大の教育効果を上げているのは、運動部だろうにという思いが強い。安田の大学時代に照らしても、アメリカンフットボール部の活動だけで、どれだけ多くを学んだことか。

 大学がスポーツを通した教育効果を認めているのであれば、任意団体のまま放置しておくはずがない。真の価値を持ったコンテンツや活動を、なぜ見極められないままなのか。安田の次の話から浮かび上がってくるのは疑いだ。日本の各大学は自分の学校を良くしたいという強い意志を、そもそも持っているのだろうか――。たとえば、東京大学はハーバード大学やケンブリッジ大学より良い大学にする意志、法政大学なら早慶を超えようとする意志はあるのだろうか。

「アメリカの大学関係者たちと話をしていると、NCAAはメンバーシップだって言うんです。意志の集合体だと」

 どんな意志の集合体なのか?

「大学を良くしたいという意志を持つ人たちの、学校やスポーツの垣根を越えた集合体です。良くしたいと言っても、キレイごとではありません。ある大学の試みを別の大学が応用する。そのふたつを足して割ってみる大学も現れる。横の繋がりを活かして自分の学校を良くしていくための、具体的な方法論なんですよ」

 日本版NCAAが組織化されたら、任意団体だった運動部は学校法人に組み込まれていくはずだ。大学スポーツの産業化が進めば、活動費用を自ら稼ぎ出すようにもなるだろう。ただし、その過程に予見できるいくつもの障壁を乗り越えていくには、何よりも良くしたいという意志が不可欠ではないだろうか。日本版NCAAの横の繋がりを刺激にして各大学が切磋琢磨し、しのぎを削る運動部のエネルギーが教室にも波及すれば、やがて記憶に残る授業が増えるかもしれない。教室も豊かな学びの場となれば、生涯の師とそこで出会えるかもしれない。

 法政大学のアメリカンフットボール部は、部員130人の大所帯だ。安田は時間が許すかぎり学生一人ひとりとコミュニケーションを図り、責任を感じながら「必死に」向き合っている。どこに行っても輝ける人材を育てたい――。安田が育成に情熱を注いでいるのは、いわば地球人という自覚でこの星の未来を案じているからだ。幸福を増やし、不幸を減らす、世界の最適化に貢献できる人材を輩出するには、日本の大学もグローバルスタンダードの教育機関になっていかなければならない。

安田が描いているのは、世界の最適化をこの国から先導できるような未来――。日本版NCAAは、変革の重要な一歩なのだ。(文中敬称略)


手嶋真彦

1967年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、新聞記者、4年間のイタリア留学を経て、海外サッカー専門誌『ワールドサッカーダイジェスト』の編集長を5年間務めたのち独立。スポーツは万人に勇気や希望をもたらし、人々を結び付け、成長させる。スポーツで人生や社会はより豊かになる。そう信じ、競技者、指導者、運営者、組織・企業等を取材・発信する。サッカーのFIFAワールドカップは94年、98年、02年、06年大会を現地で観戦・取材した。