高橋由伸について

名前高橋由伸(タカハシヨシノブ)
生年月日1975年4月3日
日本
出身千葉県
プロフィール桐蔭学園高では、1,2年時に外野手として2年連続で甲子園に出場。高校通算30本塁打。慶応義塾大学に進学、1995年から4番を務める。1996年打率.512、本塁打5本、打点18の成績で、東京六大学で戦後8人目の三冠王打者となった。1997年慶大の9季ぶり28度目の優勝に貢献。8月のインターコンチネンタル杯では5打点をマークし、キューバの公式戦連勝記録を151でストップさせ、チームを優勝に導く。同年9月東京六大学でリーグ新記録となる通算23号本塁打を達成。また、通算塁打も215でリーグ新記録を樹立。同年11月巨人を逆指名、ドラフト会議で同球団に1位指名される。

1998年巨人に入団。同年ルーキー史上最多得票でオールスター出場を果たす。セ・リーグのルーキーとしては40年ぶりの3割打者となるが、新人王争いでは14勝を挙げた中日・川上に敗れた。同年ゴールデングラブ賞を受賞。1999年12月史上最速の3年目で1億円プレーヤーとなる。2001年対中日戦でプロ通算100本塁打を達成。2003年からは松井秀喜に代わって選手会長を務める。2007年には1番打者として、先頭打者本塁打9本のプロ野球記録を達成。その後も長年にわたって、主力を務めるも度重なる怪我でフルシーズンを戦えなくなると、晩年は代打の切り札として活躍。2015年オフ、原監督の退任と同時に監督就任を要請され、現役を引退して監督に就任。初めて指揮を執った2016年は広島に独走優勝を許し2位に終わる。ゴルチエ・オム・オブジェの専属モデルも務める。

通算成績は1,819試合、6,028打数1,753安打、321本塁打、986打点、29盗塁、打率.291。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞7回。桐蔭学園、慶応義塾大学卒、右投左打、180cm、87kg

慶應大学時代、抜群の成績と甘いマスクで六大学のスターに成長

高橋由伸は、幼少期から野球を始め、小学生時代から才能抜群でしたが、いわゆる根っからの野球好きではありませんでした。周りとは明らかに実力が異なっていましたが、決してプロを目指していたわけではなく、野球好きな父を喜ばせる為に続けていたのでした。そして父と二人三脚で野球の練習に励み、2メートルを超える竹での素振りを繰り返し、全く無駄のないスイングを完成させました。高校には、希望する慶應義塾大学への近道と考えて、桐蔭学園を選択します。また、高校時代は2度も甲子園の土を踏みました。

高校卒業時、すでにプロスカウトの注目を浴びていましたが、希望通り慶應義塾大学へ進学します。そして高校時代同様、1年から主力として活躍します。完全なレギュラーとして試合に出続け、3年春には3冠王に輝きました。主将となった4年時には、チームを9季ぶりの優勝に導くと、東京六大学の本塁打記録をも更新する23本塁打を放ちます。結局、4年間全試合でフル出場し、実力はもちろんその甘いマスクで絶大な人気を誇っていました。

逆指名して巨人に入団すると、即レギュラーを確保し大活躍

人気実力を備えた高橋由伸にはあらゆるプロ球団が注目し、まさにドラフトの目玉となります。当時は逆指名制度があり、数ある球団の中から巨人を選択し入団を決めました。まさにセンスの塊であり、ルーキーイヤーからレギュラーとして開幕スタメンに名前を連ねます。すると開幕戦で初安打、さらに4月早々に初本塁打を放ち、早くもチームに欠かせない存在となっていきました。

1年目は、打撃3部門すべてリーグ10傑に入ります。新人での打率3割達成は、セ・リーグでは当時監督の長嶋茂雄以来40年ぶりでした。さらに新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞し、通常ならば間違いなく新人王でした。しかし同年は大学時代にもしのぎを削った川上憲伸が14勝という好成績をマークし、新人王を逃しました。

クリーンナップの一角としてチームを牽引し、日本一にも貢献

2年目以降も、天才と称されたバッティングを惜しみなく披露していきます。3年目こそ打率3割を逃しましたが、入団7年間で6度の3割達成します。またさらに長打力もつき、1999年は一時本塁打争いに加わるほどでもありました。松井秀喜、清原和博らと形成するクリーンアップは、他球団にとってまさに恐怖となり、2000年、2002年とチームの日本一に大きく貢献します。

2003年からは、メジャーに挑戦して不在となった松井に代わって選手会長を務めます。2004年には850試合にして1000本安打を達成し、鉄壁を誇る守備でもルーキーイヤーから続けるゴールデングラブ賞受賞を6年連続に伸ばしていました。

2007年は1番打者として固定され、先頭打者本塁打新記録を樹立

2005年からの2年間は怪我による欠場で規定打席を割ってしまい、チームもまさかの連続Bクラスに沈みました。そこで当時の原辰徳監督は、チームの復活をかけて2007年シーズン開幕から高橋由伸を1番打者に固定しました。さらに2番には、オリックスからトレード移籍してきた谷佳知を抜擢するという大胆な配置転換を行いました。すると、高橋は開幕戦の初打席に初球本塁打して一気にチームを上昇気流に乗せます。

シーズンを通して1番打者として起用され、プロ野球新記録となる9本の先頭打者アーチを放ちました。結局本塁打数をキャリアハイの35本まで伸ばし、惜しくも1本差で本塁打王は逃しましたが、チームの優勝に大きく貢献します。同年FA権を取得しましたが、FA宣言せず残留を表明しました。

天才も度重なる怪我には勝てず、生涯を通じて無冠に終わる

誰もが羨む天賦の才を持っていた高橋由伸は、いつかはタイトルを、そして2000本安打の達成も間違いないと言われていました。しかしその両方共に達成することが出来ませんでした。それを阻んだのは度重なる怪我でした。しかも、その多くはフェンスや怪我を恐れない積極果敢な守備によるものでした。2年目には外野フェンスに激突して鎖骨を骨折、5年目にもフェンス際のプレーで足に故障を負ってしまいます。しかし、手を抜くことを知らない男は、その後も守備における怪我が絶えませんでした。

野球人生折り返しに差し掛かると腰の持病に苦しめられ、12年目の2009年はわずか1打席でシーズンが終えます。こうしてフルシーズンで戦えない日々が多くなると当然安打ペースも落ちていきました。入団7年で1000本安打を達成しましたが、2005年からの11年間で753安打に終わり、2000本安打には届きませんでした。

代打の切り札から一転して、巨人監督就任のため現役を引退

こうした怪我で野球人生終盤は、出場試合数が減っていきましたが、一振りにかける集中力で結果を残しました。2013年、日本シリーズでは楽天に惜しくも敗れましたが、シーズン無敗だった田中将大に唯一黒星をつけた試合で決勝タイムリーを放ったのは高橋由伸でした。

また2014年からは、代打の切り札として存在感を示します。それは数字にも現われており、2014年は球団記録に迫る代打17打点をマークし、2015年も代打成績は打率.395、出塁率.489、9打点と突出していました。2015年末で通算18年目のシーズンが終わりましたが、選手生活の終焉は突如やってきました。翌年も現役としてプレーするつもりでしたが、原監督の辞任と同時に、監督就任要請を受けます。その大役に対し選手兼任は不可能と考え、現役引退ならびに監督就任を発表しました。

2016年、青年監督としてスタートしますが、早々に広島東洋カープの独走を許し、2位をキープしたものの大差をつけられました。さらには本拠地東京ドームで優勝を決められるという屈辱も味わいます。クライマックスシリーズでは、広島と対戦することなく横浜DeNAにも敗れ、監督一年目は悔しいシーズンとなりました。


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