金城龍彦について

名前 金城龍彦
生年月日 1976年7月27日
日本
出身 大阪府大阪市
プロフィール 住友金属を経て、1999年ドラフト5位で横浜に入団。高校、社会人では速球投手として活躍したが、プロ入りと同時に野手に転向。12年5月先発デビューして以来、レギュラーに定着。7月には打率を4割台に乗せ、最終打率は両打ち選手としては史上最高となる.346を記録し、首位打者と新人王を獲得。同時受賞は史上初の快挙。12月史上3位となる449%増の4400万円で契約更改。176センチ、78キロ。右投両打

ストレートとカーブを武器にした本格派投手として注目を集める

金城龍彦が野球を始めたのは父の影響でした。というのも金城の父は近鉄バファローズで活躍した金城晃世。在日韓国人の3世となります。そのため、当時の金城は金龍彦と名乗っていました。

大阪で生まれ育った金城は高校も地元、近大付属高校へ進学。ここで投手を務めていた金城は藤井彰人とバッテリーを組むと、強豪揃いの大阪府大会を勝ち進んでいきます。2年生時の93年には松井稼頭央、福留孝介らが在籍していたPL学園をも破って甲子園大会に出場。不動のエースとして活躍していた金城ですが、俊足を生かす形で打順は1番が指定席。今思えば、この頃から金城のキャラクターが出ていました。

高校3年になった94年、金城は韓国の鳳凰大旗全国高校野球大会に在日韓国人チームの選手として参加。しかし、在日であることを理由に現地の韓国人に受け入れてもらえず、厳しいバッシングに遭うという辛い思いを経験しました。

これにめげず、金城は高校卒業後に社会人野球の住友金属へ入社。投手として本格的にプレーし、ストレートと大きく曲がるカーブを武器に本格派の投手としてエースに君臨。ドラフト前年の97年にはチームを日本選手権優勝に導き、自身もまた優秀選手賞に選出されました。

そんな金城の活躍に注目していたのは横浜ベイスターズ。ドラフト指名選手の権利を得た金城をドラフト5位で指名。金城もこの指名を受ける形で入団を決意。親子2代でのプロ野球選手の誕生となりました。

打者転向2年目でつかんだ首位打者のタイトル

投手として入団した金城龍彦ですが、横浜スカウトが注目していたのは投手としてではなく、実は野手として。150キロを投げられる肩の強さ、そして俊足を生かさない手はないとして、入団早々から金城を野手へとコンバートさせます。本来右打者だった金城ですが、俊足を生かすためにスイッチヒッターとしての起用を考えているとされ、金城は今までやってきたことをすべて覆しての打者挑戦。まともにバットをもって練習するのは高校時代以来となるだけに必死で取り組みました。

スイッチヒッターの転向は1年目の99年シーズンの終わりにはほぼ完了したのか、10月3日の中日ドラゴンズ戦でプロ入り初出場。翌年の足掛かりをつかみたいところですが、この頃の金城は守備でも危なっかしいタイプの選手でした。

しかし、2年目を迎えた00年、金城に追い風が吹きます。サードのレギュラーを張っていた進藤達哉が故障し、2番を打っていた波留敏夫が大スランプ。俊足好打のサードが欲しいというチーム事情にピタリとハマる存在として金城がクローズアップされます。

本格的に打者になってわずか1年という経験のなさが仇になるかと思われましたが、金城はこれをチャンスととらえ、右左で異なるバッティングを披露。自身のある右打席では強打し、左打席ではバットに当てることを重視するいわゆる走り打ち。この異なる打撃フォームが幸いしたか、相手チームも金城の攻略にてこずり、金城もまたヒットを量産していきました。身体能力の高さから明らさまなボールでもヒットにできるという野生児ぶりも相まって、金城の加入後にチームは急上昇していきました。

そして金城の打率は規定未到達ながらなんと4割台というハイアベレージ。このままいけば首位打者になれるとして、チームは規定打席ギリギリの419打数を金城に与えます。後半戦に金城は数字を落としますが、それでも打率は3割4分6厘という大活躍。2位のロバート・ローズに1分以上の差をつけて首位打者に輝きます。ちなみにスイッチヒッターとしては史上最高打率となった金城はこの年の新人王に輝き、史上初の首位打者&新人王のダブル受賞。この活躍を受けて、金城の年俸は前年から449%増となる4400万円までアップ。ここまでの上げ幅はプロ野球史上3位になりました。

苦悩しながらも横浜の主力打者として活躍

首位打者に輝いた金城龍彦。チームの主力選手として押しも押されぬ存在となりました。翌01年には監督に森祇晶が就任。常勝西武を作り上げた稀代の名将だけに横浜も強豪チームになるかと期待されました。

森はさっそくチーム改革のメスとして、金城のコンバートを敢行。というのも前年までサードを守った金城の守備はお世辞にもうまいわけではなかったため、より俊足が生かせる外野へのコンバート。守備の負担が減ることで打撃成績の向上も期待されました。

しかし、森は首位打者を取った金城に2番打者としての要求を追加。サインプレーを好む森と自由奔放な打撃がウリの金城はスタイルが合わず、結果的に01年の金城は打率を2割7分1厘まで下げてしまいます。それでもチーム記録となる43犠打をマークすることで、金城はチームに貢献しました。

ところが翌02年、金城の打率はさらに悪化。なんと2年前の約半数となる1割7分にまで落ち込んでしまいます。指導方が合わなかったなど諸説ありますが、キャンプ前に金城が過度の減量を行ってからのキャンプインだったことで体力が持たなくなったのがその理由とされています。主力打者がここまで打てなくなれば当然勝てるわけがなく、この年の横浜は最下位。以降、チームは暗黒時代と呼ばれる長い低迷期に突入します。

山下大輔新監督が就任した03年、「大チャンス打線」と呼ばれる攻撃的打線の1番打者に抜擢された金城は打棒が復活。制約の多い2番よりも自由奔放に打たせた方が金城の肌には合っていたのか、打率は3年ぶりに3割台に。本塁打も16本と長打力も開花しました。

その後、金城の打撃は年々凄みを増し、05年には3番打者としてロバート・ローズが持っていた球団記録の安打数にあと1本と迫る191安打を記録。さらに守備も評価されてこの年のゴールデングラブ賞を獲得。チームを久々のAクラスに導く活躍を見せました。

この活躍が認められた金城は翌06年から始まった野球のワールドカップこと、WBCの日本代表選手として選出。金城の悪球打ちは初見の投手ばかりとなる国際戦でも威力を発揮し、代打の切り札として大活躍。日本のWBC優勝に大きく貢献します。

その後も金城は横浜の主力打者として長年チームに貢献しますが、DeNAに親会社が変わってからは年齢的な衰えもあり、若手にレギュラーを譲るように。そして球団最多タイ記録となる8本目のサヨナラ安打を放った14年オフ、チームから指導者への転身を打診されます。

確かにこの年の金城は打率2割と全盛期からは程遠い打撃成績に終わりました。しかし、代打の切り札として90試合に出場したことを考えると、まだまだできるとして金城は現役続行を決意。以前から取得していた海外FA権を行使する形で横浜を去ることになりました。

巨人で終えた野球人生

海外FA権の行使という形で横浜退団の道を選んだ金城龍彦。しかし、この時点で38歳のベテラン選手を取ろうというチームはメジャーリーグには存在しませんでした。それどころか、日本のプロ野球チームですらほとんど手を上げるところがなく、危うく金城は行き場をなくすところでしたが、そこに手を差し伸べたのは読売ジャイアンツ。金城は意気に感じ、巨人への入団を決断します。

巨人が金城を獲得した理由として挙がったのは単に戦力としての期待よりも若手への指導も含まれていました。そのため金城は当初は二軍で調整し、若手選手たちの指導役に回る予定でしたが、15年シーズンの巨人は開幕早々から故障者が続出。特に外野手が足りなくなったことで、金城は開幕一軍メンバー入りを果たし、1番打者として起用されました。中でもハイライトとなったのは4月15日の対横浜戦。古巣との試合で金城は移籍1号となる3ランホームランを放つなどの大活躍を見せ、見事に古巣への恩返しを果たします。

しかし、これが金城の最後の輝きとなりました。この試合以降の金城は打率を大きく下げ、プロ入り2年目以降ではワーストの36試合の出場にとどまりました。金城もこの結果を受けて、現役引退を決意します。

現役引退後の金城はすぐに巨人のコーチとして迎えられ、17年シーズンからは二軍外野守備走塁コーチを務めています。


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