野球より陸上の印象が濃い中学時代
――ご自身がほかの人より抜きん出て速いんじゃないか、と感じたのはいつ頃ですか?
鈴木尚広(以下、鈴木) 小さいころから速いとは言われていましたけれど、小学校1年生の頃でしょうか。ラジオ体操の後に800メートルくらいの徒競走があったんです。前日からの雨でグラウンドがぬかるんでいて、スタートした時点で転んでしまいました。みんな一斉にスタートするんですけど、私だけ何秒か遅れて。でも、そこから一気にごぼう抜きして1位になったんです。
――それは、周りも「あいつ速いな」ってなりますよね。それが印象深いということは、それまでは、そういう風に自分でも思ってなかったってことですか?
鈴木 まあ、片田舎の町のちょっとした人数の中での一番ですから。ただ、何事も一番になるっていうのは、小さいころには嬉しいものです(笑)。
――プロとしてやれた理由には、ずっと1番だったという成功体験もありますよね?
鈴木 それは大きいんじゃないですかね。2番、3番だったら走ることに対してのモチベーションが上がらなかったと思います。1番になったことで、というのもあるかもしれません。
――野球を始められたのは何歳のころですか?
鈴木 幼稚園のとき、父の影響で始めました。私は長男なのですが、父親が「野球選手にさせたい」ということで、リトルリーグの小学校のチームに体験入学しました。そのとき、一瞬でその楽しさが、体をめぐりました。それからずっとですね。
――中学で一度、野球部を諦めて、陸上部に転向されたとか。
鈴木 まあ、それだと言い方がきれいなんですけど、野球部の顧問の先生が陸上も担当されていたんです。自分から積極的に陸上に参加したわけではなくて、なかば強制的なものでした。好んで行ったわけではありませんでしたが、100m、200 m、400 m、800 m、1500 m、3000 m、さらに駅伝も。陸上のトレーニングは、とにかくやりました。短距離、中距離、長距離とそれぞれに必要な筋力、持久力、筋持久力、さらに瞬発系の力も自然と身についたと思います。
――野球部と陸上部の練習は、どれくらいの割合だったのですか?
鈴木 陸上をやっていた記憶の方が大きいですね。200mを20本とか、1㎞を3分以内で5本とか、400mを8本とか、8000mのジョグとか、たくさん走らされました。陸上の練習をしてから野球の練習、あるいはその逆と、必ず対に練習しました。夏休みともなれば、30キロほどある先生の家までずっとジョギングして、そこで合宿をしました。とにかく走らされましたね。
――走ることに、あまりポジティブではなかったのですか?
鈴木 どう野球につながっていくのかなんて、当時は考えていませんでしたからね。野球は野球、陸上は陸上と分離して考えていたので、「なんで野球部なのに陸上やんなきゃいけないんだ」という気持ちの方が強かったです。
――そのとき陸上部員としても結果を出していたんですか。
鈴木 駅伝大会で区間賞をとったりしていました。でも「やらされている感」があったので、3年生になって先生のところに行き、「陸上をやるために野球をやっているんじゃないので、辞退させてもらいます」と言って、駅伝は辞めました。
――野球に限らず、他のスポーツでも走りってすごく大事じゃないですか。
鈴木 重要だと思いますね。走り方ひとつで変わってきます。陸上は、キングオブスポーツだと思っています。野球は道具を使って、いかに扱っていくかというスポーツです。陸上はコンマ0.000何秒の世界で、そこを切り詰めるために様々な積み重ねが必要。そういった意味では一番ストイックな競技だと思っています。中学生のときに出会えたのは大きかったかもしれないですね。先生には感謝しています。当時はそう思いませんでしたけど。
突き抜けないと評価されないプロの世界
――鈴木さんの現役時代の代走での使われ方も、すごく印象的でしたが、巨人が使うのは歴史の中でもレアだったのではありませんか?
鈴木 そうですね。原監督が、そういうポジションに導いて下さったので。原監督の野球における、勝つための一つのポジションを与えてもらったというとこですね。原さんの場合、レギュラーを決めるよりも、中継ぎであったり、抑えであったり、後半に出てくる選手をいかに育てるかを、考えていました。
――代走は、本当に1回1回が勝負になるじゃないですか。代走での起用が増えていく中で、より走りに特化した練習を取り入れていたのですか?
鈴木 シーズン中は7時間前から(球場に)入って、トレーニングをひたすらしていました。足に対しての注意力みたいなのは相当ありましたね。まず球場に着いたら足湯に入ります。車を運転して行くので、どうしても同じ姿勢のままになってしまい、血液の循環が悪くなる。足にストレスをかけたくないので活性化させて、体を動かせる状態にしていく。東京ドームの試合では毎回、足湯に入りました。球場に着いたとき、練習が終わったとき、試合ごと、だいたい10分ずつ、トータル1日30分入っていましたね。
――10分ぐらいでも効果があるんですか?
鈴木 全然、違いますね。ビジターのときは使えないので、青竹踏みと天然の水を持って行っていました。適切な水分を摂ることも、走るためにすごく重要です。だから僕は、岐阜まで行って天然の水を汲んできていました。
――シーズン中に東京から岐阜まで行くってすごいですね。
鈴木 良いと思ったものなら行きますね。20リットルのポリタンクを買って。こだわりです。いろんなところに行って、いろんな水を試しましたが、そこの水が一番合いましたね。
――代走で常に100%の力を発揮するために、メンタルの部分はどうしていたんですか?
鈴木 メンタルは弱いと思います(笑)。決して強くはないですね。
――なぜ弱いと感じるのですか?
鈴木 弱いから、あれだけ準備をしたんじゃないですかね。言い訳をしない自分をつくるために。メンタルが強かったら、結果を残すための何かをしてこないと思うんです。そこに慢心してしまう。慢心することが嫌いだから、自分はいつでも弱いという風に言い聞かせてやっていたのかもしれません。
――代走を告げられて出てくるとき、球場はすごく盛り上がったじゃないですか。あのときにアドレナリンが出てくるみたいなことはありましたか?
鈴木 あまり騒がないでくれよというのが正直なところでした。
――でも、あれを利用して相手のバッテリーにプレッシャーかけられましたよね?
鈴木 僕一人の力だったら限界がありましたけど、何万人というジャイアンツファンが僕を助けて、相手にプレッシャーをかけてくれたことは、プロの世界で僕が勝負できた一つの理由です。あれがメジャーリーグの舞台だったら、そうならないと思うので、環境にマッチしていたのかもしれませんね。
――長いプロ野球の歴史の中でも、そういう存在は、鈴木さん以上の選手がいないと思います。すごい経験をなされていますよね。
鈴木 何がどうなったか僕もわからないんですけど。
――極めるってことが大事だということでしょうか。
鈴木 極めないと、突き抜けないとやっぱり評価されません。プロの世界ですから。中途半端でなくて、ある種突き抜けて一つのカテゴリーの中で勝負して、そこでみなさんが注目してくださったので。
アンラッキーが成長のたびにラッキーに変わった
――現役時代にライバルと思っていた選手はいますか。
鈴木 ライバルですか? ライバルとは少し違いますが、僕と似通った選手、例えば広島の赤松君とか出てきたときは、楽しみでした。同じ境遇、同じ立ち位置のスペシャリストとして、『赤松くんが出ると、どうやって盗塁するのかな』と。だから、ライバルではなくて、同じ立ち位置の中で勉強させてもらうという感じでしたね。
――先週、現役引退を発表した片岡治大選手は、どういう存在だったんですか。
鈴木 やすくんは、スタートがとにかく良いですよね。中間は遅いですけど、スタートの速さ、初速の速さは、僕が見て来たなかでも一番と言って良い。思い切りの良さも、彼の魅力ですね。
――ケガがあって、今回無念の引退となってしまいました。
鈴木 「本当に悔しい気持ちの方が大きい」と言っていました。選手が引退を決めるときは、実力がなくなったときと、ケガのどちらかが多いので……。やっぱり、つくづく思いますよ。ケガをしないことがいかに大事なのか、コンディションを保つことがいかに大切なのかを、若い選手たちに知ってほしい。『ケガをしたら、引退という決断をすることになるかもしれない』。そう思ったら、もっともっとコンディショニングに対して興味を持ち、そのための行動をとると思います。僕は、もし生まれ変わってプロ野球選手になったら、ケガをしないで引退したい。ケガをしたら、必ずパフォーマンスは落ちます。パフォーマンスが落ちることには、プロ野球選手として、プロ野球を持たないといけません。
――みんながそう思うようになったら、変わるでしょうね。
鈴木 これは日々の徹底しかありません。トレーニングと違って、急に体が大きくなるわけではなく、見えづらい部分です。だから献身的にできる人とできない人の差が生まれるでしょう。それがある種、プロの厳しい世界の一つです。
――鈴木さんは、ご自身のキャリアについて、どういう印象ですか?
鈴木 最初にケガをしてよかったなと思います。もし最初からうまくいっていたら、今のように細心の注意を払うような、自分にとっての細かさも出なかったと思います。失敗からどういう風に学んでいって変えていくか。それについては、すごく思う部分があります。プロになったばかりの頃の知識は、全然足りていませんでしたね。だから僕はラッキーだと思っているんです。人との出会いもそうですし、先ほどの中学校の陸上の先生の話も、その当時はアンラッキーな人でしたけど(笑)、成長していくたびにラッキーに変わるんです。だから、常に意味があるっていうことを感じますね。
<了>