日本球界が実現させた「戦力均衡」という理想

私のような昭和世代の野球ファンにとって、近ごろのプロ野球は動きが早くてついていけない。一昨年のセ・リーグを制して時の人になった東京ヤクルトスワローズの真中満監督は、気づくと敗軍の将として球団を去っていた。昨年のパ・リーグを制した北海道日本ハムファイタースも、今季を5位で終えている。日ハムは12年、13年にも「優勝→最下位」という転落をしているが、転落を繰り返した。

そういった成績の上下は采配や編成、選手の移籍や負傷といった事情でも説明できる。ただ大きな背景は今のNPBがセパともに上位と下位の本質的な差がないこと。今季のクライマックスシリーズを横浜DeNAベイスターズが制したことで、セ・リーグはこの7年間で6チームが日本シリーズに進出している。つまり日本球界は「戦力均衡」というある種の理想を実現させた。

言うまでもなくドラフト制度はそれを実現させるための仕組みだ。ドラフト会議(新人選手選択会議)の開始は1965年で、既に50年以上の歴史がある。しかしそれがなぜ今になってようやく機能しているのだろうか?

初期のドラフトは運用が極端にアバウトで、例えば第1回会議の西鉄ライオンズは16名を指名しつつ契約に漕ぎつけたのが3名だけ。進学や就職といった選手の意向と関係なく「指名したいから指名する」という原則に忠実な指名を行っていたのだろう。

また球団が「もう補強予算を使い終わった」という一方的な理由で選手との交渉を打ち切ることもあった。松岡弘は191勝の記録を残している大投手だが、1967年にサンケイアトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)の5位指名を受けている。にもかかわらず球団側の事情で交渉をキャンセルされた。同年の都市対抗野球における大活躍で球団側が評価を改め、8月という中途半端なタイミングで入団している。

しかしこのようなやり方は非効率で、その先への計算も立たない。制度の永続が前提になれば、どの球団も有力な社会人チームや大学と安定した「取引関係」を築こうと努力をする。徐々に各球団は獲得の乏しい指名を自重し、成約率は上がっていった。

徐々に塞がれていった「抜け穴」

一方でドラフト導入直後からそういった「調整」にも使われていたのがドラフト外の選手獲得だ。元国会議員の江本孟紀氏や現巨人軍GMの鹿取義隆氏、野球殿堂入りも果たした左腕・大野豊氏、「トリプル3」を達成した秋山幸二ソフトバンク前監督、通算2432安打の石井琢朗氏といった錚々たる名選手がドラフト外からのプロ入りだ。

短時間に育成枠を除いても80~90名程度を選択するドラフト会議では、今も頻繁に人材の「取り逃がし」が起こる。各球団の構成と予算、選手側が内々に提示する条件などから、しばしば上位級の選手が指名されずに終わる。そう考えると「ドラフト外」の利もあるのだが、この手法は1991年をもって打ち切られた。

2000年代に入るとさらにドラフトの抜け穴が塞がれていった。2004年に導入されたのは「プロ志望届」によって事前に意思表示を明確に出す方法だ。高校と大学の野球部員は届を提出しないと各球団の指名を受けられない。

過去には社会人、大学に進むことを公言する選手に対する強行指名が多かった。例えば江川卓は作新学院高3年秋の1973年に阪急ブレーブスから指名を受けている。慶應義塾大志望だった江川はこれを拒否し、慶應が不合格だったため法政大法学部(第二部)に進んだ。しかし今は志望届さえ出さなければ、球団から強引な勧誘を受けずに済む。

熊谷組入りを表明していた工藤公康、早稲田大進学を表明していた桑田真澄、駒澤大進学を表明してた城島健司は不志望を覆した例だ。事前に話が「できていた」という可能性が推定されるケースでもある。一方で現在は大学の推薦も志望届を出さないことが前提。社会人は「プロ待ち」を認める場合もあるので少し複雑だが、以前のようにプロ入りのダシに使われることはほぼ無くなった。

またかつては支配下登録枠に入り切らない選手を練習生として採用し、ユニフォームを着せることが認められていた。20年近くに渡って西武ライオンズの正捕手を務めた伊東勤は熊本工業高の定時制(4年制)に在学し、卒業見込がないため3年秋にドラフトの指名を受けられず、所沢高の定時制に転校して先に西武の一員となっていた。伊東は1981年のドラフトで西武の1位指名を受けてからのプロ入りだが、はっきりと囲い込まれていた。

ここで名を挙げた秋山は81年、工藤と伊東は82年のプロ入りだがいずれも西武の黄金時代を支えた名選手。その後NPBの優勝監督にもなった人材でもあるが、揃って「抜け穴」から入団している。

1980年代の西武は根本陸夫監督、管理部長の元でドラフト制度に「チャレンジ」するあらゆる手を打っていた。根本氏は他にも松沼兄弟(博久、雅之)をドラフト外ながら「1位級」の条件で獲得している。ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)の球団社長としても城島の獲得に尽力するなど、良くも悪くもドラフトという制度を軽んじる「抜け駆け」が多かった人物だ。

西武は社会人チームを活用した囲い込みも行なっていた。プリンスホテル野球部はライオンズと同じ資本系列で、石毛宏典、宮本慎也といった選手を輩出した名門。やはり西武に進む選手が多かった。しかし西武グループはバブル経済の崩壊、土地価格の下落によりパワーを弱め、プリンスホテルの野球部も2000年に廃部した。

またダイエーに移った根本氏も1999年に死去している。そういったドラフトへの「チャレンジャー」が消え、制度的にも抜け穴が埋まっていった。

もはやドラフトの失敗を、資金力でカバーすることは難しい

他にも大きい要素が二つある。一つは逆指名の廃止だ。1993年に導入された「逆指名制度」は自由獲得枠、希望入団枠と名を改めて存続していた。2004年に「一場事件」(栄養費と称される金銭を下交渉の段階で渡していた)が発覚するまで、資金力による獲得競争となっていた。最終的には07年夏に発覚した西武の裏金問題(これもアマ球界の選手に金銭を先払いしていた)を受けて、06年をもって廃止されている。

例えばダイエー(ソフトバンク)は井口資仁、松中信彦、和田毅、馬原孝浩、松田宣浩といった後の主力をこの枠で獲得し、その後の隆盛につなげた。ただ、この制度を経て加入した選手は既にベテランとされる年齢に達している。

もう一つは日本球界とMLBの接近だ。かつては落合博満、工藤公康のような球界を代表する選手がフリーエージェント制度を用いてNPBの「金満球団」へ移籍していた。しかし最近はダルビッシュ有や前田健太(いずれもロサンゼルス・ドジャース)、田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)、そして大谷翔平(北海道日本ハムファイタース)といった名を挙げるまでもなく、NPBのトップレベルは海を渡っていく。

読売ジャイアンツやソフトバンクといえども、MLBにマネーゲームでは太刀打ちできない。リーグ内の力関係を「個」で一変させるような実績がある大物を、NPBの球団が獲得することは難しい。MLBのレギュラー級が来日するケースも1980~90年代に比べて減っている。メジャーの25人枠、40人枠の「ぎりぎり」を獲得するのが12球団にとっては現実的な補強戦略だ。

「金満球団」が差別化を図る貴重なツールとなっているのは育成だ。ソフトバンクホークスは50億円以上とされる総工費をかけて「HAWKSベースボールパーク筑後」という施設を建設し、三軍まで手厚く強化している。千賀滉大は愛知県立蒲郡高校を経て、2010年に育成枠4巡目という評価でプロ入りした右腕だ。三軍、二軍とキャリアを積み、2016年と17年は連続して二桁勝利を挙げている。17年春には侍ジャパンのメンバーとして、ワールドベースボールクラシックにも出場した。そういう存在が間違いなく球団の「プラスアルファ」となっている。

だからこそ今のNPBは、育成枠も含めたドラフト会議での選択が大切になる。アメリカ球界も含めたスカウト力が決め手になる。10月26日は12球団にとって2017年でもっとも大切な日になるかもしれない。今はもうそこで犯した失敗を、資金力でカバーすることが難しくなっているからだ。

<了>

大島和人

著者プロフィール 大島和人

1976年に神奈川県で出生。育ちは埼玉で、東京都町田市在住。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れた。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経たものの、2010年から再びスポーツの世界に戻ってライター活動を開始。バスケットボールやサッカー、野球、ラグビーなどの現場に足を運び、取材は年300試合を超える。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることが一生の夢で、球技ライターを自称している。