取材・文/石塚隆 写真/榎本壯三

投手だけではない“野球選手”としての三浦大輔

プロ野球選手として三浦の秀でたところはどこかと言えば、まず“精密なコントロール”をイメージする人が多いに違いない。確かに、引退試合で見せたバレンティンから奪ったふたつの三振は、三浦の制球力ならではのものだった。スライダーやシュート、フォーク、スローカーブなどを巧みに使い分け、最後は打者の裏をかき外角低めのストレート――見逃しで奪う三振は、三浦の代名詞と言っていい。

 だが、すごさはそれだけではない。最終登板の1回表、無死一、三塁の場面。三浦は山田哲人をピッチャーゴロに打ち取り、1失点したもののきっちりとダブルプレーに抑えた。当り前のプレーではあるが、確実なフィールディングと素早く安定した送球こそ三浦の真骨頂なのである。

 25年間を振り返ると三浦は3270イニング以上投げているのだが、失策はわずか9個しかない。ちなみにフィールディングが上手いと言われていた元巨人の桑田真澄氏は、日本球界で2760イニング以上投げ、27の失策を記録している。もちろん単純に比較できるものではないが、それでも三浦がフィールディングに長けていたことが理解できる数字だろう。

「そういう記録があるっていうのは最近知ったんですよ。ただ僕はこれまで、ピッチャーだから投げるだけでいいとは思ったことはありませんからね」

 ギネス記録になった、投手としての24年連続安打もそうだが、三浦はひとりのピッチャーというだけではなく、あくまでも野球選手として総合的な能力が高い選手だ。それもまた現役を長年続けられてきた秘訣なのである。

「毎年、春のキャンプはかなりの数のノックを受けていました。目的は下半身強化のためでもあったんだけど、結果的にフィールディングの上達につながったんでしょうね。打撃もそうで、一打者として一生懸命やれば、相手は嫌がるもの。事実、自分がそうでしたからね。いくら打率が低くても必死に打ちにくればやっぱり神経を使う。少しでも相手ピッチャーの攻略になればと思い、打席に立っていました」

 常に全力で誠心誠意プレーすること。それこそが25年間ブレなかった三浦の信条なのだ。

「走るにしても足は遅いですけど、常に全力疾走してきました。野球教室とかに行くと、子どもたちに『常に全力でプレーしような!』って言うわけですよ。それを自分ができなかったら子どもたちの夢を壊してしまう。自分の言ったことだけは、この25年間、しっかりとやってきたつもりです」

紆余曲折の25年――野球の神様は存在した

一口に25年と言っても、その道のりは当然のように長く、平たんなものではなかった。ほとんどのプロ野球選手が経験したことがない領域を歩んだ三浦にとって、長く続けることの要因とは一体どんなものだろうか。

「よく訊かれるんですけど、自分じゃよくわからないんです。高校からプロ野球選手になったとき、この年齢までやろうなんて思ってなかったわけですからね。ただ目の前のことをクリアしていくのが精一杯。1年目は『早く二軍で使ってくれ、一軍に上げてくれ』って思っていました。で、1年目は最終戦で一軍で使ってもらって気持ち良くて、2年目は『この場で勝ちたい、ローテーションに入りたい』と思って、常に必死にやった。だから、2年後、3年後は……なんてあまり考えていなかったんです。それから、人と同じことをやっていても勝ち目はないので、どうしたら勝てるようになるかを常に考えていました。その積み重ねで25年。本当、根性だけですよ(苦笑)。階段を一段一段上って、あるときふと振り返ったら『俺はこんなところまできたのか』といった感覚かな」

 日々のたゆまない努力と克己心が、四半世紀の長きにわたり三浦をプロ野球選手として堅持させた要因なのだろう。それでも幾度となくピンチは訪れている。持病である肝機能障害をはじめ、肘の手術や二段モーションの禁止、2008年のFA騒動など、多くのことがあった。プロ野球人生で心情的に一番つらかった場面はどこか。

「いろいろありましたけど、結局のところ僕はやっぱりピッチャーだからシーズン中に投げられないのが一番きつい。マウンドに立って打たれたら、また練習して取り返せばいい。でも、ケガをしてチームメイトが頑張っているのにマウンドに立つことさえできない状況は、本当にしんどかったですね」

 だからこそ今シーズン、若手の台頭もあり大ベテランの自分の出番がない立場を理解していたが、正直なところはつらかった。だが一方で、近年、暗黒の時代をともに過ごしてきたチームは大きく成長した。表現は適切ではないかもしれないが、チームは三浦の手から“離れていった”のだ。

 紆余曲折の25年――三浦大輔は“野球の神様”の存在を感じたことがあるのだろうか。

「その瞬間を感じたことはないけど、思い返せば野球の神様はいたのかなって。とにかく僕は、一生懸命練習をしていれば絶対にいいことがあるはずだ、必ず自分に返ってくると信じながら野球をやってきました。練習をしたからといって今日、明日に答えが出るわけではない。目の前の課題を克服し、目標を達成するために25年間やってきただけ。そういう意味では、野球の神様が見ていてくれたからこれだけ長く野球ができなのかなって、現役生活が終わったからこそ感じますよね。本当に幸せなプロ野球人生でしたから」

三浦大輔がチームに残した偉大なる遺産

これまでのプロ野球人生、三浦はプロ入りする選手、そして去りゆく選手たちを山のように見てきたはずだ。そしていよいよ自分が去る番になった。横浜一筋25年、現在DeNAに所属する若い選手たちに、なにを残したのか。

「いや、たいしたものはありませんよ。ただ……ベイスターズは、いいチームになりましたよね。かつては、苦しい時代がありましたから。スタンドはいつもガラガラで、年間100敗するんじゃないかって言われたこともあった。僕はFAでこのチームに残ったとき、横浜をいいチームにしてもう一度優勝したいと思った。正直、僕ひとりでどうこうできる問題じゃなかったけど、ここにきてアマチュアの選手からこのチームに入りたいって思われるようないいチームになったんです。僕は他球団の人に言いますよ。『横浜、いいチームになっただろ?』って。まだまだチームとして完成したわけじゃないけど、今後、楽しみはどんどん増えていくでしょう。だから、僕は引退しても自慢しますよ。『俺、このチームにいたんだぜ!』ってね」

 本人は謙遜していたが、三浦が残した財産はチームにとってとてつもなく大きい。2年目のクローザー山﨑康晃は「プロフェッショナルとしての試合へ向かうための準備の重要性、そしてファンへの立ち振る舞いは引き継ぐべき財産だし、三浦さんがやっていたように僕らもやっていけばきっと大丈夫だって確信しています」と言う。

三浦はこのチームで「もう一度優勝したい」と語っていたが、この思いは成就できなかった。そこに悔いはないのだろうか。

「もちろん悔いはありますよ」と三浦はちょっと語気を強めて言ったが、次の瞬間、表情をゆるめてこう続けた。

「それでも僕は日本一を一度経験しているし、このチームで25年もやらせてもらって、最後は盛大にセレモニーをやってもらえた。そしていま、チームは確実に変わってきた。これ以上、贅沢を言っちゃいけないというか……二度目の優勝はできなかったけれど、いまはそれ以上にあらゆるものを与えてもらいました。プロ野球選手として、これ以上幸せなことはありません」

 誠実な人柄で誰からも愛された三浦大輔が、プロ野球選手としての幸せをほとんど享受できた稀な人間だということは間違ない。これからは、生涯にわたり横浜の“永遠番長”として、成長過程にある若いDeNAを見守る一番星になってくれるだろう。

(著者プロフィール)
石塚隆
1972年、神奈川県出身。スポーツを中心に幅広い分野で活動するフリーランスライター。『週刊プレイボーイ』『Spoltiva』『Number』『ベースボールサミット』などに寄稿している。


Ishizuka Takashi