史上482人目の記録
プロ通算1000試合出場という記録には、どれほどの価値があるのだろうか。
2016年8月18日時点で、過去の達成者は482人。最多出場の谷繁元信(元中日)が記録した3021試合には、遠く及ばない。
一方、単純計算すると、1シーズンに行われる143試合すべてに出場し、それを7年続けると1001試合になる。そう考えると、通算1000試合出場に“高い価値”があるとわかるだろう。
8月18日、西武の渡辺直人が通算1000試合出場を達成した。“いぶし銀”という形容詞がふさわしいこの選手は、牛久高校、城西大学、三菱ふそう川崎(2008年解散)を経て2007年、26歳で楽天に入団した。以降、横浜(現DeNA)、西武と3球団を渡り歩き、35歳の現在はプロ10年目のシーズンを過ごしている。
そのなかでレギュラーを張ったと言えるのは、楽天での4年間、横浜1年目の2011年、西武2年目の2014年くらいだ。だが、たとえスタメン出場しなくても、堅守、内野ならどこでもこなすユーティリティ性、そして勝負強い打撃をベンチに評価されているからこそ、これまで1000試合以上で起用されている。楽天時代の2008年には34盗塁を記録したように、かつては俊足も武器だった。
渡辺が続ける“普通”のプレー

2013年7月10日、シーズン途中で西武に移籍した渡辺は会見の場でこう話した。
「どんなときでも、どんな状況でも、全力でプレーすることを見せたい。細かいことを言えば、個人が状況に応じた役割をしたら、チームの勝ちにつながるというのが自分の考えにあります。そういうのを伝えられればいいですね」
渡辺の言葉を聞いて、“普通”という印象を受けた。プロであるならば、どんなときでも全力を尽くすのは当然ではないだろうか。
しかし、渡辺の真意はグラウンドで目を凝らすほどに伝わってきた。本当の意味でのプロフェッショナルが見せる全力とは、これほどまでに凄いものなのか、と。
西武にやってくる前のDeNAで、渡辺はいわゆる“干された”状況にあった。一軍から外され、二軍で若手と汗を流す日々が続く。横浜に移籍した2011年にオールスターに出場したほどの選手は、こうした状況でいかにして自分と向き合っていたのだろうか。
「そこを話すんですか?」
西武で取材をはじめてから少し経ったころ、思い切って聞くと、渡辺は苦笑した。だが直後、思いの丈を紡ぎ出していく。
「普通のことを普通にやるだけです。一軍にいるからとか、二軍にいるからとかで、自分のスタイルは変わりません。二軍で試合に出られないと、モチベーション的には厳しいですよ。でも、いつも目標として、いつかチームの力になれるときがくるから、そのためにしっかり準備しておかなければと思っていました」
くしくも、DeNAで行っていた準備は新天地で報われることになる。
「たまたま西武にトレードできて、その準備が生きました。自分がやっているのは普通のことですよ。どんな状況でも変わらず、目の前の状況のために練習、試合をやっていく。良くても、悪くてもベストを尽くす。それは変わらないというか、変えることができない。いつでも全力でやるし、勝ちたいし」
西武に途中加入した2013年、渡辺は主に2番を打ってセカンド、サードの守備に就いた。翌年は3年ぶりにシーズン100試合以上に出場。勝負強さと安定感の高いプレーでチームの勝利に貢献し、同時に野球に真剣に取り組む姿勢で若手に大きな影響を与えている。
西武に拾ってもらった恩義
2015年の春季キャンプを数日後に控えた日、渡辺とじっくり話す機会があった。このとき、渡辺は印象的な言葉を数多く残している。まず、年齢を重ねれば重ねるほど、プレッシャーとの距離感が変わってきたというのだ。
「自分がレギュラーで出ていたときも経験しているし、試合に出られない日が続いたこともありました。年齢も重ねてきたので、(成績が)ダメだったら(選手としてのキャリアは)終わり。野球をできなくなるというプレッシャーが、苦しいときの自分を前に駆り立てる。だから、逆に楽しいんですよね。失うものがないというか」
こうした感覚は、チームを移ったことで強まったという。
「僕はライオンズに拾ってもらったと思っているんですよ。自分が野球をできなくなるかもしれないという環境から、もう1回チャンスをくれた球団だと思っていて。すごく感謝しているし、運があるなと思っている。ライオンズのために、いままで自分がやってきた経験なり、自分の野球スタイルをすべてぶつけようと思っています」
渡辺の心のなかに入り込めたことで、もっと奥底にある本音を知りたくなった。その気持ちが、インタビュアーとして言葉の選択ミスを招いた。「渡辺選手にとって、全力を尽くすのは最低ラインだと思います」と話を振り、さらなる目標を聞き出そうとすると、彼はこう反論してきた。
「全力というのは最低ラインじゃないですよね。すごく難しいことなんですよ。1年間は長くて、体のどこかにケガを持っている人もいるし、ケガするときもある。試合で点差が広がることもあるし、144試合、全イニングを全力でやるのはすごくレベルの高い話だと思います。それを自分が目指している。自分が成績で引っ張れる選手でないことはわかっています。適当にやるのは簡単ですけど。年齢が行っても野球に取り組む姿勢をみんなに見せるのは、一番チームにとってプラスになると思っています」
プロ野球で全力疾走を徹底する選手が実に少ないことを考えると、逆説的にその大変さを想像できる。だが、渡辺は年齢とともに盗塁する機会こそ減ったものの、1塁まで全力で走り続けている。
記憶に残る走塁と犠打
野球の華である本塁打や奪三振と違い、渡辺のプレーは地味だ。だが筆者にとって、脳裏に刻まれたプレーがいくつもある。
2015年4月21日の日本ハム戦で7回、1死二、三塁で炭谷銀仁朗が一塁前にスクイズを転がすと、二塁走者の渡辺は三塁を回って本塁突入を試みた。三塁コーチャーは止めていたにもかかわらず、だ。三塁走者の森友哉が生還して4点リードとなり、チャレンジが許される場面ではあった。
渡辺がホームを狙った理由は、二塁走者として大きなリードをとれていたからだった。
「自分の見えている範囲で起きているプレーは、自分で判断したい。あそこは失敗したけど、勉強になりました。後悔はないですね。だって、自分に行こうという意識がなかったら、三塁で止まっていますから。こうなったらこうしようと考えていて、そうなったから行きましたという話なので」
今季、見事に決めた送りバントも職人の仕事だった。6月25日のロッテ戦で2点を追いかける8回、無死一、二塁から代打で打席に立ち、犠牲バントをきっちり決めた。100%の成功を求められ、かなりのプレッシャーがかかる場面だ。そんなシーンでバントを難なく決めると、西武はこの回、同点に追いついている。すると渡辺は延長10回、1死からセンター前安打で出塁し、サヨナラのホームを踏んだ。
試合後、途中出場してチームを勝利に導くプレーをふたつもした心境について聞くと、渡辺は短くこう答えている。
「いや、もう、ホッとしています」
そう言って見せた安堵の表情が、渡辺のプロとしての矜持を物語っていた。
長いシーズンではチームの勝利に恵まれないこともあれば、自分のプレーが結果に結びつかないこともある。35歳になったいまでもレギュラーで出たいのが本音だが、首脳陣の立場から見ると、試合終盤の切り札となる控え選手は不可欠だ。
自分がいま、チームで置かれた立場を理解し、求められる役割を果たす。そうしてチームの勝利に貢献することが、プロ野球選手にとって最も重要だ。それが、渡辺の言う「全力」の意味である。
26歳の新人だったころからつねに全力を尽くし、35歳になるまでのプロ10年間で通算1000試合出場を積み上げた。その数字には、極めて高い価値がある。
(著者プロフィール)
中島大輔
1979年、埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。2005年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材し『日経産業新聞』『週刊プレイボーイ』『スポーツナビ』『ベースボールチャンネル』などに寄稿。著書に『人を育てる名監督の教え すべての組織は野球に通ず』(双葉新書)がある。
(著者プロフィール)
中島大輔
1979年、埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。2005年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材し『日経産業新聞』『週刊プレイボーイ』『スポーツナビ』『ベースボールチャンネル』などに寄稿。著書に『人を育てる名監督の教え すべての組織は野球に通ず』(双葉新書)がある。