800打席弱を消化しなにかをつかんだ山田哲人


2011年に大阪・履正社高校からヤクルトに入団した山田が長打力を大きく伸ばしたのは、3シーズンで445打席を消化して迎えた4年目、2014年である。7月に入った頃より本塁打が増えはじめ、一軍での通算打席が800弱となったあたりでなにかをつかんだ様子が伺える。
その後の活躍はご存知の通りだ。年々、長打の割合を増やし、かつ打率も下げていない。とにかくひたすら成長を続けているのが、山田哲人という選手だ。今季も後半戦で20本程度本塁打が出れば、6年通算の本塁打数は120本に達する可能性がある。

その山田に球団の最年少記録を破られた池山隆寛もまた、高卒の長距離砲としてその名をよく知られている。池山が31本塁打して頭角を現したのは5年目。山田より1年遅いが、前年までに消化した打席は700打席で山田に近い数字だ。

山田、池山と比べると長距離打者という印象は薄いが、やはりヤクルトで主軸を打った岩村明憲は、3年目に打率や打席に占める本塁打の割合が一定に達した。中距離打者としてではあるが、比較的早く適応したように映る。

そして岩村の後ヤクルトの主軸に座った畠山和洋は遅咲きの代名詞。いまの山田と同じ6年目の時点では、外国人選手とポジションが重なりやすかったこともあり、わずか29打席の出場にとどまっていた。
畠山が長打力を見せたのは29歳になった2011年で、23本塁打を記録した。11年かけてようやく一人前の長距離打者になったわけだが、このシーズンに入るまでの通算打席は942。山田や池山がブレイクするまでに要した打席数と、そこまで大きな差はない。
山田哲人のライバルたちがブレイクに要している機会
ここからは、山田に近い世代から、だんだんと古い時代の強打者が出来上がるまでに要した時間を見ていく。

山田と1歳ちがいで同じセ・リーグで戦うライバル・筒香嘉智は、やや紆余曲折を経ていまのポジションにいる。2年目の2011年に40試合で8本塁打して評価を高め、翌年446打席を得たが、この年は長打力を発揮できなかった。成績が安定したのは結局5年目の2014年。前年までに消化した打席は672打席だった。

中田翔は山田と出場機会の増え方が似ている。ルーキーイヤーは一軍出場がなく、4年目の2011年にレギュラーを手にした。翌2012年には24本塁打を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。前年までに消化した打席は840打席だ。この年も序盤は不振に苦しんだが、ベンチが我慢強く4番として起用し実を結んだ格好だ。

坂本勇人は2年目でレギュラーを獲得。4年目の2010年に31本塁打しているが、これは特異なシーズンと考えるべきだろう。中距離打者として出来上がったのはその前年の2009年と言えそうだ。それまでに要した打席は524打席だった。

中島裕之が27本塁打した4年目の2004年は、かなり本塁打の出やすい年だった。よって、翌年から総本塁打数は下落している。そのため27本はやや高めに出過ぎた感があるが、中距離打者として中島が出来上がったのはこの年といって良いだろう。前年までに消化した打席は105と少ない打席数で適応している。

山田哲人が背中を追う歴代スラッガーたちの若き時代

松井秀喜は1年目で203打席を得ると、2年目も着実に成長。このシーズンを終えた時点で772打席に達した。その後は安定的に成績を残し、日本を代表する打者になっていく。しかし、ルーキーイヤーの打率は2割台前半。11本塁打とある程度の長打力は見せていたとはいえ、ベンチに我慢の意識はあっただろう。だが、その我慢が翌年からの松井の打棒をもたらしたといえる。

中村紀洋は4年目、5年目で形になった。4年目の1995年までには782打席を記録しており、平均的なタイミングでの才能開花であるように見える。

全国的には無名といっていい東京・関東高校(現・聖徳学園高校)から広島入りした江藤智。全試合に出場し、34本塁打でタイトルを獲った5年目を出来上がった年とするなら、それまでに要した打席は715。ただ、前年から出場試合数は少ないものの近いパフォーマンスは出している。ISOが.200をかなり超えてくる生粋の長距離打者としては、少ない打席数で適応したと言えるかもしれない。

これまで見てきた打者もそうそうたる面子だが、彼らと比較しても規格外と言わざるを得ないのが清原和博である。高校生の時点で既に一流のプロと同じレベルだったとみられ、首脳陣に我慢の期間を一切与えることなく適応した。山田が今シーズンで通算本塁打を120にしても、同じ年齢の時点の記録としては、なお60本以上の差がある。まさに、これぞ“怪物”だ。

秋山幸二は3年目の1983年に40本塁打して才能を開花させた。その後は3年連続で40本以上を記録。2年目のシーズン中にアメリカ留学を経験しており、日本のファームよりもレベルの高い環境で多くの打席を経験していたことは、早い段階での才能開花と無縁ではないだろう。当時としては画期的な育成策が功を奏した形。
1950-1970年代のレジェンドたちも苦労していた若手時代

掛布雅之はルーキーイヤーから一定の出場機会を得ていた。その点を除くと山田と似た足取りをたどっている。6年目に本塁打を量産しISOを高めている点などがそっくりだ。掛布のISO.363は、今季の山田のここまでにおける数字(.356)に近い。それを考えると掛布の偉大さがわかる。
山田の身長は180cm、掛布は175cm。プロ野球選手としてはさほど大きくはない身体ながら、ボールに上手く力を伝えスタンドインさせる技術を、同じ時期に得ていたようだ。

プロ入り直後に投手から野手への転向があったとはいえ、レジェンド王貞治が出来上がったのは、平均的で4年目である。前年までに約1200打席を消化しており、遅めの適応だったようだ。荒川博打撃コーチとの出会いがなければ、そのまま巨人に所属した一選手として消えていったかもしれない。実際に、トレード間際のところまできていたという話もあるほどだ。
しかし打撃で開眼してからはものすごい勢いで本塁打を増やした。今シーズンの山田と同じ24歳で55本塁打を達成している。

最後に高卒テスト入団から這い上がった野村克也。捕手の年齢層が高かった南海で野村はすぐに出場機会を得ており、2年目の1955年には403打席を得ている。そして翌1956年には30本塁打を記録し、強打の捕手としてその後長く君臨した。素早い適応をしていることを思えば、“苦労人”のイメージとは少しちがう側面を見た気がする。
“一発屋”に終わらない本格的なブレイクには700-900打席程度が必要
多くの強打者たちの若き時代の成績を追ってきたが、共通点がいくつかあった。ひとつは、長距離打者について言えば、「4-5年目」「700-900打席前後」を経験した後に安定した成績を残し始める選手がほとんどということ。山田を筆頭に多くの選手がその程度の打席を要している。
フル出場であれば、1シーズン半くらいだろうか。“我慢”の基準として、ベンチにそこまでの打席を求めるのは、よほど強打者を擁しているチームでないと厳しい。だが折を見て起用しつつ総打席数700-900打席が見えてきた選手を、一時期我慢してスタメンで起用するというのは、成功をもたらすひとつのあり方かもしれない。中田などのケースがそれにあたるだろう。また、日本で打席を与えられないのであれば海外へという手段の有効性も、秋山が示唆している。
また中距離打者は、それよりも少ない打席数で適応してくるケースの多さも目についた。岩村や坂本、中島などがそれにあたる。これは一般的な言説と近い結果ではないか。
そして、あまり打席を消化していない段階で結果を残した場合、その好成績の継続性にやや危うさがあるように思える。筒香や中村剛らは、一度結果を出すもその後低迷、打席数が700-900打席に達した後に再度ブレイクしている。
打席数を得られるかどうかは、チーム事情やその選手の守れるポジションに大きく左右される。すぐさまレギュラー奪取とまではいかなくても、入団後の4-5年で、ある程度の打席を得られる環境こそが、有望株選手が才能を開花させられる“土壌”と言えそうだ。次の世代の山田哲人が生まれるとすれば、そんな土壌のある球団からということになるだろう。
著者:山中潤