【Jリーグ人気に押される中、プロデビューした18歳】

 オ〜レ〜オレオレオレ〜ウィーアーザチャンプ〜

 1993年、Jリーグ開幕で日本は空前のサッカーブームに沸いていた。なにせTHE WAVESの『ウィー・アー・ザ・チャンプ』が朝の子ども向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で鳴り響く異常事態だ。今聴くと微妙にオレオレ詐欺撲滅ソングのようだな…というのは置いといて、当時の子どもたちが憧れたのはジャイアンツやライオンズではなく、ヴェルディやアントラーズだった。

 歴史的なJリーグ開幕戦のヴェルディ川崎vs横浜マリノスは視聴率32・4%を記録。さらに若貴フィーバーで世の中は空前の相撲人気。プロ野球の危機が叫ばれる中、球界にひとりの救世主があらわれる。当時18歳のルーキー松井秀喜である。

 前年夏、甲子園2回戦の明徳義塾高戦で松井は5打席連続敬遠されチームも敗退。一度もバットを振ることなく最後の甲子園を去った男は、数カ月後のドラフト会議で4球団が競合し、12年振りに巨人監督復帰したばかりの長嶋茂雄が当たりクジを引き当てる。ドラフト直前まで即戦力投手の指名を考えていたスカウトに対して、ミスターが阪神ファンで知られる松井獲得を熱望したという。ちなみに巨人サイドにとって、『V奪回へ夢いっぱい 当てた長島 松井巨人』とスポーツ報知で号外が出るほどの歓喜の当たりクジだったわけだ。

 Jリーグ開幕の喧噪を横目に、その長嶋茂雄と松井秀喜という新旧スーパースタータッグが地上波テレビのゴールデンタイムを席巻。背番号55がプロ初本塁打を放った5月2日の巨人vsヤクルトは視聴率32・2%、9回裏にホームランをかっ飛ばした午後9時5分の瞬間最高視聴率はなんと39・7%だった。一応ナベツネさん風に断っておくと日本シリーズではなく、ペナント序盤のたかが1試合である。オリックスのイチローはまだ無名の存在で、野茂英雄もメジャー移籍前。大袈裟に言えば93年当時の松井には巨人だけでなく、プロ野球界の未来そのものが託されていた。

【圧倒的な実力と親しみやすいキャラを併せ持っていた55番】

 ところで松井と言えば、「ゴジラ」というニックネームで御馴染みだが、思春期真っ只中の高校時代の本人はこれを気に入っておらず、プロ入りを機に「ウルフ松井」にする案があったという。巨人入りのお祝いとして近所の自転車屋から贈られたチャリンコが「狼号」だったことから思いついたネーミング。ってもちろんそれが浸透することはなく、結局ゴジラ松井のまま東京ドームに上陸する。のちに長嶋監督が高橋由伸のことを「ウルフ由伸」と命名するもまったく定着しなかったことを考えると、やっぱりウルフは往年の千代の富士のものである。

 街の自転車屋のオヤジからも愛されるドラ1ルーキー、このエピソードからも分かるように松井はその圧倒的な実力と同時にどこか憎めない隙があった。普段から忘れ物が多く、寝坊しまくり時間にも超ルーズ。のちにAV好きを堂々と公言して、2007年には東スポとソフト・オン・デマンドが共催した「AV OPEN」で特別審査員を務めたのは有名な話だ。

 そんな飾らない姿勢と野球選手としての図抜けた素質は、来日した外国人選手たちからも可愛がられた。1年目には元メジャーの本塁打王ジェシー・バーフィールドから外野守備をマンツーマンで教わり、翌94年にチームメイトになったダン・グラッデンからは「スーパーマン」と勝手にあだ名をつけられ、さらに片言の日本語と英語で走塁や打撃のコツを伝授される。グラッデンいわく「アイツはこれからの日本の野球をリードする役目があるんだよ。だから、今の内からオレの全てを伝え残したい」と松井の桁外れのポテンシャンルにベタ惚れだったという。

【1年目序盤は大苦戦も、夏場以降に固め打ち】

 さて、のちにヤンキースでワールドシリーズMVPにまで登り詰めたスラッガーのプロ1年目はいかなるシーズンだったのだろうか? 春季キャンプではフリー打撃でサク越えを連発。視察に来たOB川上哲治氏を「王(貞治)君の1年目以上」と驚愕させ、当時の自分が通っていた中学校の教室では、ストーブにあたりながら輪になって「松井、マジすげーな」なんつってクラスメイトたちと盛り上がった記憶がある。

 しかし、オープン戦は初打席でヤクルトの石井一久に三振を喫するなど20試合で53打数5安打の打率.094、0本塁打と言い訳のできない成績で開幕2軍スタート。それでも「自分を落としたことを後悔するような活躍をします」と宣言した18歳はイースタンで打率.375、4本塁打と格の違いを見せつけ、5月1日に1軍初昇格を果たす。さっそくライバル野村ヤクルトとの一戦に即「7番レフト」でスタメン出場すると、第2打席でタイムリー二塁打を放ちプロ初安打・初打点を記録。いきなりお立ち台に上がり、翌2日には前述の通り1軍7打席目でヤクルト高津臣吾から弾丸ライナーのホームランをライトスタンドに突き刺した。

 だが、その後はプロの攻めに苦しみ、6月20日の阪神戦では打率.091まで下降し、7月9日には2軍落ち。当時の巨人2軍名物、北海道の長期遠征にも鍛えられ、8月16日に再昇格。8月22日の横浜戦でスタメン出場するが、この試合以降の松井は2002年に巨人を退団するまで全試合で先発出場を続けることになる。

 今こうして振り返ると、長嶋監督の松井に対するこだわりの強さに驚く。8月中旬時点でチームは首位ヤクルトと2位中日を追いかけ、広島と3位争い。そんな状況で批判覚悟で打率.083の高卒ルーキーを1軍スタメンで使い続けたわけだ。なにがなんでもコイツを将来の4番打者に育ててみせる…ミスターの執念すら感じさせる起用法は、最後まで3位を争うCS制度がある現在では難しいかもしれない。

 そんな「4番1000日計画」が始まり、松井は8月31日の横浜戦でその年の最多勝ピッチャー野村弘樹から圧巻の2打席連続本塁打。さらに3番に昇格した9月には4本、10月にも4本と再昇格後の38試合で10本のホームランを放ってみせた。最終的にセ・リーグ高卒新人記録となる11本塁打を記録。なお、高卒ルーキーで二桁本塁打を打った選手は、93年の松井以来出現していない。

 あの夏の喧噪から、早24年。プロ野球というジャンルそのものを背負う覚悟を持った、規格外の高卒ルーキーが今後あらわれるだろうか? 最後は入団会見時の18歳・松井秀喜のコメントで終わりにしよう。

 「最近、プロ野球の人気が下がっていると言われていますが、非常に残念なことです。相撲、サッカーなどの他のスポーツに負けることがないように、僕らが頑張って盛り上げたいと思います」



(参考資料)
『長嶋巨人ここまでバラせば殺される』(長嶋巨人番記者/あっぷる出版社)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1993年』(ベースボール・マガジン社)
『スポルティーバ 2003 12月号』(集英社)
『1990年大百科 おニャン子からバブルまで』(宝島社)

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