【2002年、空前のサッカーバブルに盛り上がる日本列島】
あの頃、デビッド・ベッカムはプロ野球選手の誰よりも人気者だった。
2002年、日本列島はサッカーの日韓W杯で異様な熱気に包まれていた。6月9日、グループリーグ日本vsロシア戦の視聴率はなんと66.1%を記録。さらに6月30日の決勝戦ドイツvsブラジルも65.6%とまさにサッカーバブル絶頂と言っても過言ではないお祭り騒ぎ。女性週刊誌の表紙をベッカムと「イルハン王子」ことトルコ代表のイルハン・マンスズが飾り、ついでにオフィシャル・テーマソングは当時大人気バンドのドラゴンアッシュが奏でる『FANTASISTA』。どさくさに紛れて多摩川にアゴヒゲアザラシのタマちゃん登場。全然関係ないけどグラビア界をインリン・オブ・ジョイトイや佐藤江梨子が席巻。もちろんベルギー戦とロシア戦で2試合連続ゴールを決めた稲本潤一は一躍国民的ヒーローに。今思えば、日本で「パブリック・ビューイング」という言葉を頻繁に聞くようになったのも、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをかまし出したのもこの頃からである。
ちなみに大学の学食でサッカー日本代表の話題になった時、ソフトモヒカンの同級生がカツカレーを頬ばりながらこんなことを言っていた。「すげーじゃん、あいつらほとんど同い年だよ」と。小野伸二や稲本らゴールデンエイジと呼ばれた79年組は当時22〜23歳。そこにあったのは圧倒的な「俺らの代表感」である。野球のように太ったおっさんたちじゃなく金髪の兄ちゃんたちが世界を相手に戦っている。あのピッチを走るあいつは自分たちそのものだ…って、実は02年3月に大学卒業していた俺はW杯を全試合見るために就職もせずに親から仕送りだけ貰うノーフューチャーな生活をしていた。そりゃあ楽しいに決まってる。いつからだろうか? 友達の家に集まって遊ぶゲームが『ファミスタ』や『パワプロ』じゃなく、『ウイイレ』になったのは…。
【球界ではW杯終了後に背番号55が大暴れ】
そんな空前のサッカー熱にうなされた02年。いったいプロ野球界はどうしていたのか? 空気を読んだNPBはW杯日本戦開催日は試合を組まずにお休み。しっかり絶対に負けられない戦いをサポートして、1週間に行われるのは最高で5試合のみの変則日程の神対応だ。これにより先発ローテに余裕ができ、首位を走っていた阪神の星野監督は「各チームともエースクラスが投げあうことになる。ガチンコ対決だから大きな連勝も難しいかもしれん。置いていかれないようにしなくては」と不安を口にしたが、阪神は6月に泥沼の8連敗を喫し3位へと後退。そして、W杯終了後の7月から待ってましたと言わんばかりに大暴れしたのが、プロ10年目の松井秀喜である。
当時28歳の絶頂期、シーズン前には堂々の三冠王宣言した背番号55の打棒は凄まじかった。7月は打率.379、11本塁打。8月は.402、13本とゴジラ大爆発の夏。打点も2カ月間で49打点と荒稼ぎをして三冠王へ驀進。10月初旬に中日の福留孝介に打率を抜かれるも、10月10日の東京ドーム最終戦では全球ストレート勝負を挑んできたヤクルトの五十嵐亮太から、レフトスタンドへ50号ホームランをかっ飛ばす。チームでは77年の王貞治以来の50本塁打を達成してみせた。
打率.334、50本、107点、OPS.1.153。MVP、本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。4番打者として全試合全イニングフル出場。この年の原巨人は日本シリーズでも西武を4勝0敗で下し日本一に輝くことになるが、そのど真ん中にいたのは間違いなく松井だった。入団時に王貞治に追いつき追い越せと「背番号55」を与えられ、長嶋茂雄との二人三脚の末に完成したON以来の最強スラッガー松井秀喜。いわば前年に監督退任していたミスターの「4番1000日計画」が完遂したシーズンでもあった。さあ、21世紀の巨人を頼んだぜゴジラよ…って多くのファンが思った直後に、あの事件が起こったわけだ。
【“巨人の4番”がFAで自らチームを去る衝撃】
なんと日本一を決めた2日後の02年11月1日未明、テレビのニュース速報で「松井のFA宣言とメジャー移籍希望」の第一報が流れたのである。前日深夜、ホテルオークラで土井球団代表、長嶋前監督、原監督らと個別会談。午前1時過ぎに部屋を訪れた原は松井の口から「夢を捨てきることができないんです。メジャーに行かせてください」という禁断の告白を聞くことになる。元々松井のメジャー志向は知られた話で、前年契約更改の会見でも「巨人残留かメジャーの二者択一」とはっきりと口にしていたし、一足先に海を渡ったイチローの大活躍で日本人野手への評価も上がっていた時期だ。冷静に考えたらメジャー移籍も想定内。だが、まだ毎晩地上波ナイター中継をしている時代において「巨人の4番が絶頂期に自らチームを去る」インパクトは凄まじかった。
昭和の野球少年たちが死にたいくらい憧れた巨人4番の座。それを自ら手放しメジャー移籍する選手の出現。会見に臨んだ松井はまるで自室のエロ本がオカンに見つかったかのような暗い顔で「今は何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが」と言葉を絞り出し、焦った土井球団代表は「日本球界の大砲をメジャー・リーグに流出させたことをファンの皆さまに深くお詫びします」となんだかよく分からない謝罪をかます始末。この年の7月1日には「株式会社よみうり」の一部だった巨人を「株式会社読売巨人軍」として独立組織にすることが決まり、9日から巨人はビジター用ユニフォームの胸文字を伝統の「TOKYO」から「YOMIURI」へと変更。さすがにそのあまりのダサさに戦慄を覚えた巨人ファンも多かったが、正直なところ21世紀初頭の読売グループ完全に迷走状態に突入していたように思う。
【プロ入り以来、野球界を背負い続けた男】
それにしても、なぜ松井は自ら「裏切り者」という言葉を口にしたのだろうか? それは、当時の巨人と言うか、プロ野球の置かれた立場が関係していたからではないか。振り返れば、松井プロデビューの93年にサッカーJリーグが開幕。そして、巨人最終年の02年には日韓W杯フィーバーの余韻が残る中、50本塁打に挑戦した。いわば、松井のキャリアは常に「サッカー界に押され気味の球界の救世主役」を期待されてきたわけだ。
それは恐らく松井本人が最も自覚していただろう。プロ野球人気を支えてきた盟主の4番打者が、自らメジャーへ去ったら巨人ブランド価値は著しく低下する。ある意味、長嶋さんや王さんが築き上げた伝統を自分が終わらせてしまう。でも、長年の夢に嘘はつけない。本当に申し訳ない。だからこそ、そのすべてを飲み込んだ上でメジャー移籍会見では「裏切り者と思われるかもしれないが…」と苦渋の表情で口にしたのではないか。もちろん松井には何の罪もない。時代は変わったのだ。だから、多くのファンは「そんなに背負う必要はない。頑張ってこい、今までありがとうゴジラ」と送り出した。
平成最強スラッガーが巨人で最後の輝きを放った2002年。なお現在までNPBで年間50本をクリアした日本人打者は、02年の松井秀喜が最後である。
(参考資料)
『週刊プロ野球 セ・パ誕生60年 2002年』(ベースボール・マガジン社)
『スポルティーバ 2002 12月号』(集英社)
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