【21世紀が始まり、イチロー渡米でMLBがさらに身近に】

 いつからSuica(スイカ)を使ってるのだろう?

 先日、電車の中で気になってググってみたら、JR東日本でSuicaが導入されたのは2001年11月18日だった。ちなみにネット百科事典『ウィキペディア日本語版』の開始も01年の出来事だ。今は当たり前のものとして日常で利用しているものも21世紀に入ってから我々が手にしたツールなのである。そう言えば、90年代末に合コンへ80万画素のデジカメを持ってくと「えー凄い、デジカメ〜」って浜崎あゆみみたいなメイクをした女子大生たちが盛り上がっていた記憶がある。もちろんスマホはまだ存在せず、カメラ付き携帯電話がようやく普及し出したのもこの後の話だ。

 何事も慣れは怖い。野球界だってそうさ。いまや日常の風景になっているメジャーリーグ中継も、2001年を境に一気に身近になった印象がある。理由はイチローのポスティングシステムを利用してのシアトル・マリナーズ移籍である。野茂英雄がドジャースでトルネード旋風を巻き起こしたのは1995年だが、投手と違い野手は毎日試合に出る。となると日本人野手出場試合としてNHK BSで連日生中継されるリアル。イチローはルーキーイヤーにもかかわらず1番ライトで起用され続けると、新人最多記録の242安打を放ち打率.350でいきなり首位打者に。強肩レーザービームをぶっ放し、盗塁王や新人王に加え、リーグMVPも獲得する。ついでにこの年のマリナーズはシーズン116勝を上げ、ぶっちぎりの地区優勝。その強いチームの中心にいるのは我らが背番号51。そりゃあ観るよテレビ。

 オリックス時代のプレーはスポーツニュースのダイジェストで一瞬紹介されるだけだったのが、マリナーズへ移籍した途端、NHKのニュースで毎日報道されるブレイクぶり。イチローは野茂英雄や大魔神・佐々木とはまた別のベクトルで、海の向こうの大リーグをニッポンのお茶の間に提供してみせたわけだ。皮肉なことに日本プロ野球が生み出した最高の天才が、MLBの広告塔として逆輸入された瞬間でもあった。

【中村紀洋が「今年の近鉄は何かが起きます!」と叫んだ大阪ドーム】

 16年前、イチローが27歳で渡米したこの年、日本球界では巨人の長嶋茂雄監督が65歳で退任する。まさに時代の変わり目。と言っても、当時大阪で大学生をやっていた俺は、翌年に控えた日韓W杯に備えて狂ったように世界中のサッカーを見まくっていた。プロ野球も結果を確認する程度…だったのが、ご近所の近鉄バファローズの快進撃で球場へ通うようになる。当時、阿倍野の金券ショップで近鉄株主優待券を300円で買うと、なんと大阪ドームのすべての券種は半額で購入できた。そりゃあこのガバガバ経営じゃ赤字垂れ流すよという真っ当な突っ込みは置いといて、一番安い内野席で入場するとガラガラの内野スタンドはどこでも座れる観客天国である(今なら即係員に注意されるのでやめましょう)。

 99年、00年と2年連続最下位。このシーズンの近鉄も投手陣に不安があり開幕前の評論家予想は最下位が多かったが、3月24日の日本ハムとの開幕戦に5点差を逆転勝利してから勢いに乗り、16勝11敗1分けで16年ぶりの4月首位スタート。中村紀洋とタフィ・ローズの3・4番コンビを中心に吉岡雄二、礒部公一、川口憲史、大村直之らを擁した“いてまえ打線”がチームを牽引する。7月4日のロッテ戦ではサヨナラ弾を放った中村が「今年の近鉄は何かが起きます!」と宣言。夏場には息切れして首位ダイエーに離されかけるも、弱冠20歳の岩隈久志(現マリナーズ)が投手陣の救世主となり、9月には西武、ダイエー、近鉄の3チームがゲーム差なしで並ぶ大混戦へ。

 9月17日からの天王山と言われた西武3連戦では初戦の前川勝彦の好投から始まり怒濤の3連勝。日に日に人が増えて行く大阪ドームで、9月23日の日ハム戦はパウエルとクローザー大塚晶文の完封リレーで競り勝ち、翌24日の西武戦でローズが当時王貞治の持つシーズン最多記録に並ぶ55号本塁打、中村が相手エース松坂大輔からサヨナラ2ランを放ち劇勝。ちなみにこの年のローズは率.327、55本、131点でホームラン王とMVPを獲得。中村は率.320、46本、132点でローズに1点差で競り勝ち打点王に輝いた。そして、マジック1であの9月26日のオリックス戦を迎えることになる。

【“代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打”で近鉄最後の優勝】

 「今日はもう厳しいかもしれませんねぇ…」

 三塁側内野席でカプセルホテルバイトの先輩と観戦していた俺は焼きそばパン片手に思わず愚痴る。就活からもバックレた大学4年の秋。未来も金もなかったが、時間だけは腐る程あった。9回表終了時、5対2と近鉄3点ビハインド。選手みんなガチガチやで…なんて思ったら、9回裏にあっという間に無死満塁の大チャンスを作り、ここで梨田監督が送り出したのは北川博敏だ。右打席からかっ飛ばしたのは、幸せ全部乗せの代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打。打球が飛んだ角度、絶叫に近い大歓声、超満員のスタンドの空気、そのひとつひとつを今でも鮮明に覚えている。12年ぶりのリーグVに道頓堀も真っ赤に染まり、あの夜だけは、大阪で猛牛軍団人気が阪神タイガースを超えた。日本シリーズで若松監督率いるヤクルトに1勝4敗であっさり敗れたのもまた近鉄らしい。

 チーム打率.280、211本塁打、770得点はいずれもリーグトップ。近鉄最後の優勝の原動力“いてまえ打線”は豪快でパワフルで、隙だらけだった。帝王・中村紀洋はノビノビとホームランを狙い、タフィ・ローズは試合後の阿倍野橋TSUTAYAで陽気におネエちゃんに声を掛ける。いい時代だったという表現はイージーだが、ユルい時代だったことだけは確かだろう。今の世の中では、テレビもネットも新聞もその手のユルさは許容されにくい。だって、炎上しちゃうから。

 ユルいと言えば、近鉄の球団経営もユルかった。90年代の赤字額は年間17〜18億円。実は97年に開場した大阪ドームは当初は今ある西区ではなく、近鉄線のターミナルである天王寺駅近くに建設する予定だったという。しかし、隣接する天王寺動物園を郊外へ移転させ、跡地に球場を作るのは資金的に不可能。代わりに大阪市から提示された現在の場所へ移転することになるが、2000年球団運営費の赤字額は35億円まで膨れ上がり、バブル崩壊後は経営不振に陥っていた近鉄本社もあやめ遊園地や近鉄劇場といったレジャー部門の事業を次々と整理するハメに。グループ全体で7万人いる社員の内、1割相当の7千人のリストラを行った。もはや本社にプロ野球の赤字は宣伝広告費なんて言う余裕がなくなり、ついに北川の球史に残る一発で劇的な優勝を成し遂げた大阪近鉄バファローズも、3年後の2004年にオリックスに吸収合併され消滅する。

 今思えば、2001年9月は多くの時間を大阪ドームで過ごした。あの頃、アメリカの同時多発テロが9月11日に起こり、ニュースを見ると気が滅入ったのをよく覚えている。

 先の見えない混沌とした世の中のこと、就活すらしない自分のさえない未来のこと…。中村紀洋やタフィ・ローズの豪快なフルスイングはそのすべてを忘れさせてくれたのである。



(参考文献)
『スポルティーバ』2004年11月号(集英社)
『週刊セ・パ誕生60年 2001』(ベースボール・マガジン社)

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